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見立てを駆使する —左川ちかの詩「青い道」について—

 今回は、詩人・左川ちかの「青い道」という詩について見ていきます。


   青い道 左川ちか

  涙のあとのやうな空。
  陸の上にひろがつたテント。
  恋人が通るために白く道をあける。

  染色工場!

  あけがたはバラ色に皮膚を染める。
  コバルト色のマントのうへの花束。
  夕暮の中でスミレ色の瞳が輝き、
  喪服をつけた鴉らが集る。
  おお、触れるとき、夜の壁がくづれるのだ。

  それにしても、泣くたびに次第に色あせる。


 この詩を一読した時点では、よく意味が分からないという感想を抱くと思います。しかし、この詩には読み解くための鍵があり、その鍵は、第三連の最初の三行に潜んでいます。第三連の最初には、「あけがたはバラ色に皮膚を染める。/コバルト色のマントのうへの花束。/夕暮の中でスミレ色の瞳が輝き、」とあります。ここには、「バラ色の皮膚」や「コバルト色のマント」、そして「スミレ色の瞳」という表現が含まれています。これらの表現を見た時、私たちは、人間の皮膚や瞳をイメージしたり、マントを着ている人物を想像したりします。しかし、そのような想像をすると、この詩が何が言いたいのか、さっぱり分からなくなってしまいます。そうではなくて、この三行に潜むある事実に気づくことが、より深い読みに繋がるのです。
 その「ある事実」について見ていきましょう。問題にしている三行の中でも、特に、「あけがたはバラ色に皮膚を染める。」と「夕暮の中でスミレ色の瞳が輝き、」という二つの文章に注目して下さい。「バラ色」というのは、実は「あけがた」の空の色であるということに気づくことができると思います。同様に、「スミレ色」というのは、「夕暮れ」の夕陽の色であると考えられるのです。そうすると、「あけがたはバラ色に皮膚を染める。」の「皮膚」とは、実は空のことを表しているのではないかと推測されます。また、「夕暮の中でスミレ色の瞳が輝き、」の「瞳」は、沈んでいく夕陽のことを指していると考えられます。
 これらの二つの例が、どちらも、空に浮かぶ情景を描いていることを踏まえると、「コバルト色のマントのうへの花束。」という表現もまた、空にまつわる描写であると推測されるのです。「コバルト色」というのは、要するに青色の一種なので、「コバルト色のマント」とは、昼間の晴れた空のことを指していると考えられます。その上にある「花束」とは、昼の太陽のことを指すのではないでしょうか。
 このように、この三行は、それぞれ、空の情景を、色々な物に見立てているのだと言えます。ここで、第一連に「恋人」という単語が登場することを頭に入れた上で、もう一度この三行を読んでみましょう。「あけがたはバラ色に皮膚を染める。/コバルト色のマントのうへの花束。/夕暮の中でスミレ色の瞳が輝き、」とありますが、これらは、互いに恋愛関係にある、女性と男性の蜜月を描く文章であるように読めないでしょうか。「あけがたはバラ色に皮膚を染める。」というのは、恋心に上気する女性の頬を、「コバルト色のマントのうへの花束。」というのは、マントを着た男性が、女性に花束を差し出す様子を、それぞれ想像させます。そして、「夕暮の中でスミレ色の瞳が輝き、」というのは、恋心に満たされ、いきいきとする女性の瞳を想起させるのです。
 つまり、これらの三行は、空の情景を、男女の恋愛の様子に見立てた文章であると言えるのです。しかし、この三行の次に記されている一行を見てみると、事態は急展開します。

  喪服をつけた鴉らが集る。

 この一行は、夕暮れの空に、鴉たちが飛び交う様子を描いているため、これもやはり、空の情景を描いた表現であると言えます。その点では、前の三行と変わっていません。ですが、この空の情景から見立てられている、男女の物語の内容には、ある変化が生じています。鴉は黒い鳥であるため、まるで喪服を着ているかのように見えます。この一行は、そのことを利用して、作中の登場人物の死を表現しているのです。登場人物の死という事柄こそが、物語に生じた変化です。では、死んでしまったのは、女性なのでしょうか、それとも男性の方でしょうか。結論から言えば、男性であると言えます。その理由は、女性の方は、この後も作品に登場するからです。
 ここで、さらに次の一行を見てみましょう。

  おお、触れるとき、夜の壁がくづれるのだ。

 「触れる」という語が登場していますが、ここではこれを、性的な意味に取りたいと思います。つまり、男性が女性の肉体に触れることを意味していると考えたいのです。先ほど登場した男性は既に死んでしまっているので、これはまた異なる男性であると考えられます。そして、女性の方は、先ほども述べたように、同じ人物であると推測されるのです。この、二人目の男性が女性の肌に触れる時、「夜の壁がくづれる」と、作中には記されています。ここで、「夜の壁がくづれる」という表現を、黒色の「夜の壁」が崩れて、夕暮れの空に流れ込むという情景として理解したいと思います。板状に広がっている「空」とは別に、「夜の壁」という板が存在していて、その「夜の壁」が崩れることによって、その黒色が「空」になだれ込むのです。そして、この、黒色が「空」に流れる様子が、闇で空が覆われていくという、夜の到来を表しているのです。
 さらに、「空」に黒色がなだれ込む様子は、女性の肉体に触れようとする男性の存在を表してもいます。これが、合意の上の抱擁であるとすると、話の辻褄が合いません。女性の方は、一人目の男性に想いを残しているはずであると考えられるからです。したがって、ここでは、二人目の男性は女性に対し無理強いしたのだと考えるのが自然です。「夜」になって空が黒色で支配されるという現象は、この詩の中では、女性が男性に無理強いさせられているという光景に見立てられているのです。
 このような、合意に基づかない抱擁という解釈には、ちゃんと根拠があります。作品の冒頭部分を見てみましょう。

  涙のあとのやうな空。
  陸の上にひろがつたテント。
  恋人が通るために白く道をあける。

 この冒頭の三行についても、「空」の情景を表しつつ、男女の情交についての物語を描いていると読むことができます。ここで、「涙」という語が登場することに注目して下さい。これは、女性の涙であると考えられ、女性が泣いているという事実がここで提示されます。この女性が、無理強いされたために泣き伏しているとすれば、辻褄が合います。
 そして、作品は、白み始める夜明けの空について、「涙のあとのやうな空」と表現しています。これは、一面真っ黒の画面に、涙をこぼすと、黒が白くぼやけるという状況に見立てられているのだと思います。「涙のあと」の「あと」とは、「跡」という字を当てるのだと推測されます。
 そして、この、白み始めた夜明けの空は、もう一つ別のものにも見立てられています。「陸の上にひろがつたテント。/恋人が通るために白く道をあける。」とありますが、ここでは、空は「陸の上にひろがつたテント」に見立てられているのです。そのテントの中には、女性が住んでいるのでしょう。その上で、夜が東の空から明け始めることを、「恋人が通るために白く道をあける」と表現しています。男性をテントの中に導き入れるための道が、すなわち夜明けの空の白くなっている部分であると言うのです。
 つまり、ここでは、女性の心変わりが表現されているのです。女性は、一人目の男性を亡くした直後に、二人目の男性に無理強いされましたが、やがて二人目の男性に心を移し、恋人として認識するようになったのです。
 この後は,再び、

  あけがたはバラ色に皮膚を染める。
  コバルト色のマントのうへの花束。
  夕暮の中でスミレ色の瞳が輝き、

 へと続きます。つまり、女性は、二人目の男性とも、蜜月を繰り広げるのです。しかし、その二人目の男性も、やがて死んでしまいます。そして、三人目の男性が女性を抱擁しに訪れるのです。
 ……と、ここまで書けばもう分かるかもしれませんが、女性が無理強いされ、泣き伏し、やがてその男性を受け入れ、恋をするという一連の流れは、毎日繰り返されるのです。それは、空の色の移り変わりは毎日繰り返されるからです。日が昇って沈むという現象は無限に続くため、この流れも、無限に繰り返されます。つまり、一人目の男性も、実は元々は女性に無理強いしていたのだと考えられるのです。ここで、末尾の部分を見てみると、「それにしても、泣くたびに次第に色あせる。」という表現があります。この文章は、女性が泣き伏す度、夜明けは訪れるという意味です。女性が泣く度に、夜の黒色は涙によって滲み、白く色あせるからです。そして、このような一連の流れは、日本の平安時代前期の「妻問い婚」のような恋愛の形態を思わせます。無理強いというと、その犯罪性に注目してしまいがちですが、ここでは、あくまでも恋愛の一形態として詩的に描かれています。
 そして、このように一連の流れを繰り返す仕組みは、まるで、布を様々な色に染め上げる工場のようであるかのようだという意味で、作中では、空のことを「染色工場」にも見立てています。この詩の「染色工場」は、女性と男性が出会いと別れを繰り返すことによって成り立っているというのが、ここで繰り広げられている物語です。ちなみに、「青い道」というタイトルは、「コバルト色のマント」に見立てられた昼間の空を、男性が通ってくる「道」として捉え直している表現です。二重の見立てを使用している点は、夜明けの空の場合と同じであると言えます。

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