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蛍狩り【短篇小説】


「会話文から始まる小説が嫌いなんだ」

 薄暗い山道を走る帰りの車内で、彼はそう言った。
 短絡的で、空っぽで、考えることを放棄しているから、だそうだ。私はそれを聞いて、彼のことを心から守ってあげたくなった。年下の男の子にこんなことを思ったのは生まれて初めてだ。

 カーオーディオにはラウブの『I Like Me Better』が流れていて、彼はハンドルを指で叩きながら歌っていた。助手席から見えるその横顔は、何かを必死に取り繕っているようだった。
 そんな彼の姿が、とても愛らしく感じた。

「私は好きだよ」
「え?何が?」
「ううん、なんでもない」

 先ほどから斜面を上ってばかりいる。どんなに急なカーブを曲がっても目の前に開ける景色は少しも変わらず、夏の鬱蒼とした深緑が視界を塗り潰すだけだった。彼は定まった道の先をぼうっと見つめ、『Changes』のサビを朧げに口遊んでいた。

 彼の目に、私はどのようなカタチで映っているのだろうか。きちんとした大人の女性として見られているのか、それとも...。
 誰かに自分がどう思われているのかなんて考えるのはずいぶん久しぶりのことだ。彼と付き合っていることで思考が少しばかり若返ったのかもしれない。

 車を走らせているうちに、私たちは尿意を催して、どこかにトイレがありそうな場所はないか探した。けれど、カーナビはしばらく一本道が続くことを無機質に告げるだけで、車内でするわけにもいかず、適当な茂みで済ますことにした。
 野外で用を足すことに関しては田舎育ちの私の方が慣れているようで、私は素早く用事を済ませてしまうと、足元にできた尿溜りにさっと土を被せ、汚れたハンカチはそのまま山に捨ててしまった。
 彼はというと、車から降りたもののなかなかチャックを下ろさず、ばつの悪そうな顔で周りをキョロキョロとしつこく見回していた。私はショーツを下ろした状態のまま彼の元へ向かっていって、誰も見てないよ、ほら、早く出しちゃいなと揶揄い半分で促した。彼は変わらず浮かない顔をして立ちすくんでいた。

 結局、彼が用を足して車に戻ってきたのはそれから15分後のことだった。私は先に助手席へ乗り込んで、漫ろにスマホを触っていた。
 すっきりした?という私の問いかけをスルーした彼は、黙って運転席に乗り込み、エンジンをかけようとして、車のキーを落としたことに気がついた。

 陽は完全に落ちきっていて辺りに灯りもなかったから、スマホで地面を照らしながら鍵を探した。私が彼に用を足したポイントへ案内するよう言うと、彼はひどく取り乱して、一人で探すから大丈夫と私を遠ざけた。私は少し悲しい気持ちになって、ふと空を見上げた。
 その日は気持ちいいくらいよく晴れていて、山頂に近いその場所から見る夏の夜空は見惚れるほど感動的だった。綺麗な夜空なんて田舎で散々見てきたはずなのに、なぜだか私は泣きだしそうになってしまった。煌々と輝く星々の一つ一つが、何か大切なものを訴えかけているような気がしたのだ。

 彼が手に鍵をぶら下げて帰ってきた。私は、スマホの懐中電灯を当ててカタチを丁寧に検分する彼を見て、きっと私たちの関係は長く続かないなと思った。
 私たちには何か、そう、何か宿命的な、絶対になくてはならないものが、決定的に欠けていて、それはおそらく、彼の物憂げな表情や、瞬く星や懐中電灯なんかと、何かしらの関係があるのだ。

 カーオーディオにはリルナズエックスの『SUN GOES DOWN』が流れていて、白のハスラーは転がり落ちるように山道を駆け下りた。暗い車内では彼の顔がよく見えなかったけれど、先程と一転した荒っぽい運転から、彼の息苦しさや焦りの類が伝わってきた。
 不思議なことに、いつガードレールを突き破ってもおかしくない危険運転には何の恐怖も感じず、メーターが右に激しく振れるのを見て、ただ切なさと、やりきれない思いが募るばかりだった。

 夜の山を滑り落ちた白のジェットコースターは、平坦で何もない田舎道に落ち着いた。私は急激におとなしくなった彼の運転に、むしろ不安や恐怖の類を感じた。
 オーディオは停止していて、沈黙がよからぬ想像を助長してはいけないと、「お腹空いたね」といかにも女の子っぽく甘えた。彼は何も答えようとせず、出てきたY字路を前にしてブレーキを踏んだ。その難しい思案顔は、どちらに進むべきかを考えているのではなく、進むこと自体を悩んでいるように見えた。

 しばらくして、車は右手に進行を始めた。それと同時に、彼が妙な調子で語り出した。

「地球ってさ、丸くなんかないよね。丸いわけがないよね。こんなにごつごつして、僕たちがいくら目を回しても足りないくらい大胆な起伏があって、毎秒無数の生き物が死んで、産まれて、ささやかだけど無視できない雑多な人工物だって生えていて、それに表面は絶えず変動してるんだよ?失礼じゃない?丸だなんて。惑星はもっと、高尚で、神聖で、生物のはずだよ。だのに僕たちは地球を表現する時は一本の線をくるっと一周させるだけで満足するんだ。見たこともないくせに。
 僕たちは知ってる。地表の下にマントルっていう流動する物質があって、その下に液体の核があって、さらにその中に個体の球があることをね。欠片だって見たこともないくせに...。地球はどう思ってるんだろうな。自分のカタチが丸だって言われてさ、うまく受け入れられているのかな。もし受け入れられてるのならさ、僕は嫉妬しちゃうな。だってさ、地球が丸くて、ゴミ箱が四角いんだよ。嫉妬しちゃうよね。ねえ、嫉妬しちゃうよ」
 彼の口調は焦燥的な響きと測りきれない切なさを帯びていて、“丸”という単語を口にする時にだけその語気が、苦しく強まっていた。
 私はたまらず音楽をかけようとして、カーナビゲーションに手を伸ばした。彼はそんな私の手許をキッと一瞥して、すぐに前方へと目線を戻した。一瞬見えたその顔はひどく引き攣っていて、見えない何かに怯えているように見えた。「お腹空いたね」と彼は言った。

 ちらちらと住宅の明かりが見えはじめ、すれ違う車の数が急激に増えてきた。なにやら公園で夏祭りが行われているらしく、先ほどから沿道に風流なのぼり旗が連続して靡いているのが見えた。賑やかな場所が好きではないことは知っていたから、私は冗談半分で彼を誘った。意外にも、彼はすんなりと応じてそのなんとか公園に向けて車を走らせた。

 夏祭りは終わりの様相を呈していた。だんだんと消えていく会場の照明と後片付けを始める屋台の周辺には、先程まで立ち込めていたであろうムワッとした人熱が名残惜しそうに漂っていて、ぞろぞろと帰路につく子連れや年配客を尻目に、余韻に浸る若いカップルが数組と出店を畳む退屈そうなおじさんだけが、侘しく静まった夏の公園に取り残されていた。
「おい君たち。りんごあめ、ほしくないか?ほら、すごくかわいいだろ?色も形もさ、ほら、甘い宝石なんだぜ。すごくかわいいんだ。ほしいだろ?俺がちっちゃい頃はな、こいつを買ってもらうためにわざわざ好きでもない夏祭りにきてたんだ。ぺろぺろぺろぺろ舐めてさ、そんで真っ赤になった舌を見せてさ。そしたらさ、みんな笑顔で俺の頭を撫でてくれるんだよな、褒めてくれるんだよ。嬉しかったなあ、褒めてくれるんだよ」
 しなびた顔をした浮浪者みたいなおじさんが、パック詰された大量のりんごあめを抱えて話しかけてきた。甘ったるい、砂糖に怠惰と嫉妬を混ぜ合わせたような匂いがした。「なあ、金はいらねえからさ、貰ってくれよ。食っても食わなくても構わねえからさ。いらいらすんだよ。この形を見てるとさ。無性に腹が立ってくるんだ。どいつもこいつもお高く気取ってよ。こっちに見向きもしねえんだ。かわいくて甘いのにさ、かわいくなくて甘くないものを見る目で見てくるんだ。わかるか?夏祭りは楽しいんだぞ。こうやって、赤いりんごあめに、白い光を照らしてさ、きらきら輝くエロいキャンデイを見てるだけでさ、楽しいんだ。いいんだよ、全部、それだけでさ。俺にはすぐ分かったぜ?君たちには、甘い、りんごあめが足りないよ」

 おじさんから2本のりんごあめを貰って、私たちは人気のない公園を歩いていた。メイン広場から遠ざかるほど地面に捨てられたゴミは少なくなって、ブーンという大型バッテリーの振動音も聞こえなくなった。おじさんの言葉が頭に残っていたのか、彼は青白い月明かりを絡めるようにくるくるとりんごあめを透かして、ぷっくりとしたそのフォルムを検分していた。
 「赤くないね」と呟いて、彼は赤いコーティングキャンディを噛み砕いた。甘い破片は軽やかな音を立てて彼の歯から零れ落ちていき、彼は無感情で、バリバリと飴のカタチを変えていった。勢いそのままに、蔵されていた未熟な果実をも削り取ってしまうと、口内に溜まった砂糖と果肉をぺっと吐き出し、りんごあめを思い切り地面に叩きつけた。その様子はまるで、残酷なスプラッター映画を見ているようだった。私もなぜだかりんごあめを食べる気が起こらなくて、できるだけ暴力的に、スニーカーの裏でぐしゃっと踏み潰した。

 不意に湧き出たこの破壊衝動は、私の内奥にある引け目みたいなものが、彼の表面的な粗暴を間近にして、荒っぽく変貌して表れたのだと思う。もちろん靴の裏にはある種の侘しさと脆さがこびりついていたけれど、私ははっきりと女で、彼より2つも年上なのだ。弱くても、強く豪快に振る舞わなくてはならない。

 公園は思っていたよりも数倍広く、ちょろちょろと流れる小川に沿って整備された道を歩いていると、鬱蒼とした茂みの中に小さな貯水池があるのを見つけた。そこはとても神秘的な場所で、頭上を覆う木々の葉が月を完全に隠し、全くの暗闇の中、見えるはずのない水面を、辺りに生息する蛍の光が霊妙に照らし出していた。弱々しく点滅を繰り返す蛍の光は不気味な貯水地をロマンチックに演出していて、私たちはまるで夏の一夜に開かれる密やかなコンサートを見ているようだった。近くにいた1組の若いカップルが、この幻想的な風景をカメラに収めようと奮闘していた。
「ねえ、蛍って、何も食べないらしいよ。食事をさ、全くしないんだって」
「え!じゃあどうやって生きてるの?」
「さあ。食べる必要がないんじゃない?他にやることがあるっていうか。なんでも、大人になると口が退化しちゃうんだってさ」
「かわいそう!」
「たぶん、子供のうちに貯めておいたエネルギーを全部使ってさ、こうやって発光してるんじゃないかな」
「へー。なんかよくわかんないけど、必死なんだね!頑張れ!」

 カップルが写真を撮り終えて池を去るまで、私たちは一言も発さずに蛍を眺めていた。蛍が発する熱を持たない光は、暗闇の中で彼らが存在していることを健気に、懸命に示していて、その小さな光に浮かび上がる彼の輪郭は、朧げで、今にも溶けだしてしまいそうだった。
「光が嫌いなんだ」と彼は言った。「明るくて、なんでも身勝手に照らし出すような光が嫌いなんだ。光はいつも、僕のことを男だって言う。でも僕は、女でありたいと思ってる。長い間ずっと、僕は自分がどんな人間なのか分からずに生きてきたんだ。今でもそうだよ。鏡を見る度に、筋張った手足を、ごつごつした骨格を、醜くぶら下がった性器を、死ぬほど恨んだ。鏡は意地悪な嘘をついてると思って、何十枚も叩き割ったよ。親はおかしくなったと思って僕を施設に入れた。僕は施設に入れられて当然だと思った。というよりも、世の中に生きていい人間じゃないと思った。だって、男か女かすら定まっていないんだよ?生まれてないのと同じだよ。そんなおかしな人は」
 一匹の蛍は微かな光を発しては消してを繰り返していた。その不特定で危なっかしいリズムは、彼の不安定な情緒を表しているように見えた。
「たくさんの人を好きになった。自分のことが見えないから、誰かに好意を持つことで保ってたんだと思う。好きになる相手は、男だったり、女だったりした。誰かと一緒にいる時はそのことについて全く気にならなかったけど、1人になると真剣に悩んだりもした。心と体が引き裂かれるような感じでね。実際、結構きつかった。どうして自分が男の身体で生まれて、どうして女であろうとしてるのか、誰かに説明しても理解されることはないだろうし、言葉で説明すること自体もできないんだ。分からないんだよ。自分に目を向けると、一切のことがさ、分からなくなるんだ。
 僕はね、思うんだ。黒い光があったらいいのになって。黒い光が世界を照らしてくれたらさ、そしたらさ、うん、どんなに素敵な景色なんだろうなって。思うんだよ」
 彼は笑って私の方を向いた。暗がりに見える彼の顔は真っ暗な闇に滲んでいて、そのまま溶けて無くなってしまいそうだった。
 私は健気に発光する蛍を、そっと両手で包み込んで、優しく空に飛ばした。蛍は懸命に羽を動かして、夜の空へと姿を消していった。私たちは完全な暗闇に包まれた。
 私は暗闇の中で彼を抱きしめた。ごつごつして骨張った彼の身体は、弱々しく震えていた。

「私はね、君のことが好きなんだよ」

 黒に染まる世界の中で、私たちはお互いの、そして自分自身のカタチを、はっきりと感じることができた。彼は細長い両腕をそっと、私の背に回した。

 私たちの関係は長く続かないだろう。だけどそれは必ず、好転的な意味を持っていると信じている。
 私は震える彼の身体をもう一度、力いっぱい抱きしめた。






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