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「フラジャイル 弱さからの出発」読書メモ6

以下、第4章「感性の背景」第1節「葛藤の事情」の引用と、そこから感じたことや考えたことである。

われわれはつねに「弱さの起源」によって裏打ちされている。その「弱さ」はつねに恥ずかしく、ささやかな嘘によってすこしずつ塗り重ねられていく。(p.168-169)
アダムとイブも、イザナギとイザナミも、そもそもは葛藤や諍いからすべてがはじまっていた。(p.169)]

私たちは、弱さを、恥ずかしいものとみなすことによって、嘘を重ね、複雑性を増し、葛藤や諍いも増幅させているようだ。弱さを捉えなおすことが、人類の歴史の中で初めて、戦争を終わらせて、平和をもたらしていくための、ひとつの鍵を握っているのかもしれない。

リチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子」という考想で、われわれの体は遺伝子のための“仮の宿”にすぎないことをあきらかにしたということだ。(p.173)
生命舞台の主人公は遺伝子なのである。(p.173)
「人間が遺伝子の乗物なのではなく、遺伝子が人間の乗物なのである」(p.174)

この地球は、どうやら、遺伝子を核としたシステムとして成立しているようだ。私たちはつい、見た目に騙されるけれど。本当のところは、遺伝子がこの世界を支配しているということらしい。

われわれの感性はホルモンやニューロントランスミッター(神経伝達物質)の分泌の量ひとつで安定を失うようになっている。(p.174)
われわれの日々はこのような微妙なバランスの上に成り立っているおぼつかなきものである。(p.175)
辺縁系は、進化の途中に脳の中心から周辺に追いやられたために複雑なかたちになっていて、解剖してみると脳幹の視床をとりまいていて、その先端部に海馬というものをつくっている。(p.176)
われわれの残忍な気分はこの辺縁系に由来する。(p.176)
まずはこの左右の脳が分かれたという事情に問題がひそんだ。(p.176)
信号はニューロントランスミッターとレセプターによって交通され、そのやりとりのくりかえしで、われわれはさまざまな情報のフラジャイルな“表情”を解釈している。(p.177)
われわれは脳の内側に麻薬製造工場をもっていたのだから。(p.178)
ドーパミンが出すぎるとドーパミンを受けるレセプターがふえ、レセプターがふえると精神障害(とくに分裂病)がおこりやすいという報告がされた。(p.180)
エンドルフィンやドーパミンの分泌量がわれわれの「葛藤」を微妙に支配しているらしいことがにわかに注目されたのである。(p.180)

以上、脳内神経物質に関する様々な記述の引用である。

私は、一時期、自分の内側にある、非常に冷酷な側面を無視できないでいて、他の人のもつ心の温かみと比較して悩んでいたことがあった。ちょうど大学院生時代だっただろうか。このままでは絶対にロクな大人にはなれないという確信と大きな不安が心の中を支配していた。普通の就職や結婚生活に突入して、スペックだけは一人前になってしまえば、余計に自分の内側の問題が埋もれてしまい、やがて大きな問題として爆発するだろうことを予測していた。その意味で、私は、自分の内側にある「弱さ」「残酷さ」みたいなものから逃げずに丁寧に真摯にみつめる感性はあったといえる。外見上の一般的普通、というものに騙されることはなかった。そんなものを目指せば、問題はどんどん潜伏するだけだと直感していた。私は一時的に実家に帰り、ほぼ引きこもりのような生活を送り、自分の内側から発露されるものに丁寧に意識を向け、心理カウンセラーによるメールカウンセリングを通じてのみコミュニケーションをとるというような、非常にシンプルな生活をしていたのだ。しかし、その生活が簡単に問題を解決したかと言えばそうではなく、心理カウンセラーとの1対1の関係性は、心の依存先がひとつになることで一見心の安定性を獲得したかにはみえたが、結局のところ、「経済力」「社会性」といった側面が育たないという問題が一方で続き、「社会的自立」というところで大きな壁が待っていて、就職しても結局長続きせず、ある日実家に帰ったときに、非常に精神的に不安定となり、「統合失調症」(引用で書かれている分裂病の現在の正式な病名)と診断された。この診断がなされ、予後も決して簡単ではなかったが、6~7年くらいかけて、私の脳内と社会性をつなぐ適切な量・種類の服薬がみつかり、人生で初めて、「精神的に安定している」という状態が訪れ、働くことも可能となり、或る程度の社会性や経済力をもちながら生活できる現在に至っている。

このようなプロセスを経てきた私だから、上の引用の内容は、非常に理解しやすい。私たちは、たしかに脳内に麻薬製造工場をもっていることがあると思う。その麻薬性が強い人と弱い人がいるのだと思う。麻薬性の弱い人にとってみれば、麻薬性の強い人をみれば、とんでもない人間性だとか、依存的な性格だ、とか、残忍だ、とかさまざまな悪い人間の特質として片付けられてしまうかもしれない。麻薬性の強い人も、温かみのある人間との交流があれば、そういった他者と自己との違いに敏感となり、悩み、私のように、自分の脳内は何か障害を抱えているのではないか、と考え、心理カウンセラーや精神科につながることになるだろう。しかし、麻薬性の強い人間が、もし、無視され、いじめられ、「悪い人だ」というレッテルを張られるだけのコミュニケーションの経験しかなかったら。きっと他者や社会に対し、恨みの発想しか存在しなくなってしまうかもしれない。「自分の脳内に障害があるかもしれない」と認める余裕はなく、病的な依存症や犯罪行為を発生させてしまうかもしれない。

私たちは、常に弱さとともに生きていて、人によっては麻薬性が強い脳をもっているということに自覚的になれば、自己責任の4文字ですべて片付けてしまう現代の人類の愚かさがみえてくる。弱さや悪さを遠ざけたり無視したり閉じ込めたりするのではなく、むしろ、人類はもっともっと真摯に向き合い、折り合い、上手な取り扱いについて知恵を出し合うべきだ。

それは、

われわれの内なる複雑性はとどまるところを知らない。私は、われわれをとりまくコンプレックス・システムの奥座敷をもっと深く眺めなければならないらしい。(p.180)

という一文で松岡氏も述べているところでもある。

難しい内容の節ではあったが、非常に大切なことが記述されている内容であった。次の節も丁寧に読んでいきたい。









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