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1人だと「寛容」をなくしても気づかない

普段私は、家にこもってひとりで仕事をしている。
打ち合わせや取材で人に会うこともあるが、
ひとりで机に向かい、もくもくと原稿を書く時間が圧倒的に長い。

ひとりでいることは嫌いじゃないし、淋しいとも思わないから、
今の状態は、私に向いているのかもしれない。

だが、ひとりだからこそ、知らず知らずのうちに失っているものもあるのだと
最近、ふと気づいたことがある。

先日、友人が主催するワークショップに参加した。
まずは、参加メンバーが順に自己紹介をすることになった。

持ち時間はひとり2分、という目安は提示されたものの、
2分以内で話し終える人は誰もいない。
私は次第にイライラし始めた。

そして、その人の番が回ってきた時、私の苛立ちはピークを迎えた。
彼女はメンバーの中でもいちばんの若手。
自分のやりたいことがなんなのか、                   夢をもったところで、それが実現できるのか。
悩み、もがいている様子だった。

彼女は、答えが出そうもない悩みを延々と話し続ける。
持ち時間の2分を5分過ぎ、10分過ぎ、15分が過ぎようとしていた。

彼女の話は、もう私の耳には届かない。

「ワークショップという、時間を共有する場で、
自分の話ばかりだらだらと人に聞かせるなんて。
彼女はここにいるみんなの時間を、独り占めしているのではないか」

私はそう思ったのだった。
私以外のメンバーも、きっとそう思っているに違いないと。

しかし、彼女がようやく話し終わった時、私は驚かずにはいられなかった。
多くのメンバーが彼女に共感を示したのだ。

そして、ワークショップが終わった後も、
誰ひとり彼女への不満を示さないどころか、
逆に励ましたり、力になると申し出る人が続々現れたのだった。

私は少なからず衝撃を受けていた。

なんという「寛容さ」だろう。
みんなが彼女を受け入れている。

イラついて拒否反応を示した私は、毎日ひとりでいることに慣れ過ぎて、
人の話を聞くチカラが衰えていたのではないだろうか。
提示されたルールを守ろうとするあまり、
はみ出す人を許せなくなっているのではないだろうか。

ひとりで仕事をすることは、決して他人を拒否しているからではないのに。

どうしようもなく「閉じていく」自分を、再び「開く」ためには、
まず、他人に「寛容」になることが必要なのかもしれない。

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