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勝負する武器

児童文学が書きたい。
絵は描けないけど、絵本を書きたい。

子どもの頃は児童文学を当たり前のように書いていたのに、
いつからか全く浮かばなくなってしまった。
勿論その時は児童文学を読んでいたのでそれは身近な存在で、
それ以外書く術も無かったのだけれど、
やっぱり深く探れば心理的変化が大きいと思う。

理由は語るまでも無く、成長と共に精神年齢が上がってしまったからである。
それが最近、とても悲しい。
私は大人になった自覚を持たずに、
いつの間にか大人になってしまったのである。

誤解なきよう話すと、私は『大人っぽい』訳では無い。
寧ろ子どもなのである。
趣味とか好みは幼少期から止まっているのだ。
だから未だに、ボンヤリと児童文学に憧れている。

暫く離れていた願望を思い出してしまったのにはきっかけがあった。
昨日の記事を書いてから、
紐解くようにズルズルと記憶が蘇って来たのだ。
その端の方に、願望は引っかかっていたのである。

私が人生で初めて書いた小説は、
『おおどろぼうホッツェンプロッツ』の真似事だった。

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小学1年生の頃である。
私は登場人物を持っているぬいぐるみに変えて、
ストーリーをアレンジしながら、
方眼ノート2冊にも渡る大作を書いたのだ。

当時から文学というものには随分と触れて来た筈だが、
私がこの本を参考にしたのは、
子ども心にそれだけ影響されたからなのだろう。
冒険小説が大好きだった。
だから、冒険小説を書いた。
原稿用紙の上で、とにかく冒険ばかりしていた。

あの頃は書きたい作品が明確だったのだ。
それから、自分が書きたい作品を書けた。
読むターゲットはかなり限られていたし、
当時批判されるような心配は微塵も無かったからだ。

児童文学を書きたい。
書けないのは、自分の自意識とか、
はたまた周囲の目、リスクから阻められた壁のせいだ。
いつからか私は、
『功績』という言葉を頭の片隅に置いて、
頭を悩ませながらタイピングする大人になってしまっている。

冒頭では
『当時は児童文学を読んでいたから』なんて述べたが、
本当はそんな簡単なものではない。
その児童文学を書く作者は私と同じ大人で、
私には手に入れられない別の感性を持っている。

現実主義とは本当に厄介なものである。
厄介なのに、切り離すことは出来ない。
そんなのだから、夜に余計なことを思い出して眠れなくなるのだ。

多分私は、児童文学を書けない。
勿論チャレンジすることは楽しそうだけれど、
それを見て自分で満足出来る未来が見えないのである。
ここにははっきりと白線が引いてあって、
昔の私は、自分の書いた児童文学に満足していたのだ。
今はもう畑違い。
私にはもっと適した場所がある。


子どもに夢を見させられない。
無邪気な夢が見れないからだ。

だけど、大人だって夢を見る。
くたびれた心にあかりを灯すような夢である。
その夢を与えられるような作品を作りたい。
無邪気な心を失ったなら、
勝負する武器は、それ以外だ。



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