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歴史音痴、古事記を学ぶ②

「はじめてのわくわく古事記」第2回。
…から、4週間経ってしまいました💧

先週、聖書漫談塾を受講し、古事記との共通点に感激して、一緒くたに書こうとしましたが無理そうなので🤣
おとなしく古事記についてアウトプットします。
ちなみに前回・第1回目のはコチラ

古事記ははじめ数百年の間、口承で伝えられました。
稗田阿礼の驚異的な記憶力による暗誦と、太安万侶の表記により書く文化として残りましたが、本当の意味はやはり「音・言」にあります。
やまと言葉にこめられた言霊に、コア・パーソナリティに共鳴してくる響きがあるようです。
なので、口承文化なんて壮大な伝言ゲームのような文化に信用できるものがあるのか?と思っていましたが、表記することによって、むしろ伝えられる思いが限定されてしまったと言えます。
現代に古事記を読むということは、表記ではなく「音」から内容を掬いとることに意味があるようです。

ちなみに「日本書記」は漢文、すなわち外国語で書かれており、こちらは外国に日本はこんな国ですよー!と紹介するためのもの。
「古事記」は、和漢折衷・音訓併用の日本語で書かれており、こちらは日本人が祖先の想いを知り、引き継ぐためのものとなります。

日本には、1万5千年前から人が定住しており、主に狩猟や、そのへんの木の実などで食べていけていたそうです。
資源が豊かな国だったので、それぞれが物質を所有するという概念がなく、何でも共有、何でもシェアして暮らしていました。
狩猟民族ということもあり、命のつながりを直に感じ、大事にしていく文化でした。
また、自然の「声」を聴く感性が豊かで、オノマトペをたくさん持っています。このあたりの特性も、「音・言」中心の文化に繋がる理由かもしれません。

そんな性質の民族なので、古代日本が外国と決定的に違うところは、
「貯める」「争う」の考えがなかったことです。
この考えがあるので、支配者もいません。
いいじゃん、幸せじゃん❤

これは講座中に受講者から出た感想ですが、
「えんとつ町のプペル」という映画で、「腐るお金」が出てくるが、これは「貯める」概念がなかった古代日本に通じるものがあるのでは?という発言があり

あーーー!!

と、勝手に感動していました。
まあ、そこまで考えていたかどうかは、キンコン西野さんに聞いてみないとわかりませんが。

で、そんなお話をしていたら、今回は古事記の冒頭の部分しかできなかったのですが💧

「天地初発の時」で、古事記ははじまります。
「あめつちはじめのとき」と読みます。
何のひねりもないフレーズに感じますが、よくよく考えてみると、これは「天」がはじめからあった、と認識していた、ということなんです。
すべては、はじめからあった。

世界的に超ベストセラーの書物に「聖書」がありますが。
これだと、「天地創造」と言って、神様が天を創った、天地は拓かれたものだ、とされています。
日本人にとって、天地は拓かれたものではなく、はじめからあったものなんです。

まだ全然さわりの部分ですが、これだけ見ても、日本人の奥底に眠る感覚は、外国のそれとはかなり違うことがわかります。
そりゃ生きづらいはずですよね、日本人。
まあ、古代の毛皮巻き付けてウホウホ言っている時代にまで戻れとは言わないけど。
人類皆仲良く・皆平等な平和な世界を作りたいのなら、この日本人の根底に流れる性質はとても大切だし、他の民族よりずっと平和に近いと思うんです。

お金は残らなくても、思想は残る。
お金を得ることも大切ですが、今、必要最低限文化的な生活ができているのなら。
持つこと(having)よりも、在ること(being)から意識をしたい。

せっかく今を生きているのだから、先の未来の物質的な豊かさを追うより、今すぐ精神的な平和と幸せを追う方が、人生もったいなくないんじゃないかと思ったのでした☺


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