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映画【アメリカで最も嫌われた女性】

1995年、マデリン・マーレイ・オヘアとその家族が突如として行方をくらました。オヘアの知人が親族や警察に失踪を連絡したが、その反応は極めて冷淡なものであった。オヘアは無神論者の活動家であり、1963年には「公立学校での聖書朗読の授業は違憲である」という最高裁判決を勝ち取った。以降もオヘアは精力的な活動を行なっていたが、それが原因で世間どころか親族からもそっぽを向かれていた。信仰心を持つ人間にとって、彼女の運動は信仰への冒涜にほかならないと映ったのである。
本作はそんなオヘアの生涯をたどると共に、なぜ彼女が誘拐されるに至ったのかを解き明かしていく(wikipediaより抜粋)

2017年公開の
トミー・オヘイバ監督による伝記映画

私は日本人なので
かなり客観的に鑑賞できたと思う
オヘアが無神論者に至るまでが
描かれていないので
私の推測でしかないが
2度も男に捨てられて
未婚のまま2人の子供を産むことになった
人生の中で
神の存在を否定していったのではないかと感じた

神を信じていたらやりきれなかった
時代も国も周りはキリスト教徒だらけの世界で
自分は怒りや悲しみや無情の毎日で
神を否定するには十分な経験があった
なのに周りは「神に祈れ」というだけ

彼女が1番神の存在を証明して欲しかったのではないかと感じた

でも報われない日常と
異物を排除するような世の中に対し
そんなもんは作り物だし偽物なんだと
だんだんと声高になっていく

オヘアは無神論者協会を立ち上げるも
結局は否定していた教会のような存在になり
論破の糧にしていた
金にも目が眩んでいくように見えた

だけどもこの作品の彼女の言葉の中にも
共感できる部分もたくさんあった

「神に祈って人殺しが許されるなら、世の中みんな人殺しだよ」
「信仰心は否定しないが、教会から強制されるものではない」

これらは私も本当にそう思うし
宗教の自由があるならば
無神論の自由もある
だけどなぜ対話でなく争いになるのかというと
結局、どちらも不寛容なのだ

私が小学生の時の遠足や
中学の修学旅行の中で
神社仏閣巡りみたいなことがある時に
クラスの数名が「家庭の事情」ということで
バスの中で待機していることはよくあった
私個人は別にそれをどうも思わなかったし
大人になってから事情を察したぐらいで
日本の学校というのは普通に柔軟だった
キリスト教の私は親から
「神社仏閣をお参りしてはいけないよ」
なんていう教育は受けたことなどなかった

だけど中にはそういう事を禁止されている家庭もあったのかなと
今となっては思うけど
それ自体は家庭の問題だ

学校も「あ、そうですか」だし
バスの中で待機となった児童も
「うちはダメなんだ」だし
周りの児童も「そうなのね」ぐらいのことだった

なのでこの作品の冒頭にある
子供の学校で朝の祈りを唱えることに
違和感を持って乗り込んだオヘアは
「うちの子は無神論者だから祈りを免除してください」と喚き散らすが
教師は「それはできません、嫌なら訴えてください」
この事をきっかけに
オヘアは活動家となっていくのだが
日本じゃこんなことにはならないなぁと思った
確かに
ひとつの宗教の祈りを強要するものでもない
もちろん時代のせいもあるけれど
アメリカって日本人が思っているほど
自由じゃないし
先進国でもない気がしてならない

日本でも宗教弾圧時代もあったし
活動家がテロ行為に走る時代もあったが
歴史として考えられる現代からは
どれも根本は一緒で
主義主張は自由にどうぞだし
己が選択していけばいいし
どちらにせよなんでも強要するものではない
嫌なら嫌でいいじゃんと思う
(ナショナリズムは違うけどね
この国が嫌なら他に行けってロジックになるので
国歌を歌うことは強要ではないと思っている)

ちょっと深い話になってしまったが
先日の私のラジオでも語った
「スルースキル」って案外
円満に生きる術だったりするよねと思う
解決策ではないかもしれないけど
あえて闘いを挑む姿勢というのも考えものだ
だから活動家なのかもしれないけれど

なかなか面白い映画だった
オヘアの最後は痛ましい形となってしまったが

「私が死んだら、墓石に彫ってもらいたい言葉が3つある。『女性』であることが好き。『おばあちゃん』であることが好き。『母親』であることが好き。でも私が私であるかぎり、暮石に入るということはない」

という言葉はやはり最初に考察したように
オヘアが誰よりも神を信じたかった人なのではないかと感じた


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