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『スキーインストラクター(✕)でなくって 〝インチキ〟ラクター(〇)編①』

 時系列少し遡って大学1年の3月の出来事から、この話はスタートしたいと思います。バイト歴で言うと『吉野家』あがって、引っ越しも終えて、三越で『学生服販売』やっていた頃。所属していた『スポーツ大東編集委員会』(通称 スポ編)の合宿という行事がありました。発行していた学内のスポーツ新聞の編集作業を共同生活の中で一致団結で進行しましょう、という“てい”のもの。この合宿というのは年2回(だったかな?)ありまして、新聞は年4回だっけかな?記憶が怪しいですが・・・その他、体育会所属の各部活の活動報告を雑誌としたものを年1回、発行してまいました。それぞれ週イチの定例会のほか、各担当部活の取材で成り立つので、特に合宿はしなくても作れてしまうのです。なのに、合宿という形を取っていたのは、委員会仲間で大学生っぽい遊びがしたかった、諸先輩たちの思いの積み重ねでしかないと推察しますね。さらに普段の定例会にも、夏の合宿にも来ない『顧問』が、この春の合宿だけには参加するというイベント付き。これも後に知るのですが、この『顧問』がスキーが得意でそれを見せたいが為にいらっしゃっているらしかった。そうなんです、編集をするためなのに、何故か雪山で、しかもスキー場の目の前にあるロッジでの合宿なのは、そんな背景の下というわけ。そして新入後、約1年弱となるのだが、ここまで会ったことのない『顧問』に挨拶しなければならないので、絶対参加の行事との事となった。
 ちなみに、この時点までは「スキーなんて、なんでわざわざ寒いところに高い金かけて行って、何がそんなの楽しいの?」なんて、ま~ったく興味のないスポーツでした。そんな心持ちで、内心面倒臭いしか無い合宿への参加。3泊だか4泊だかする日程でタイムスケジュールは、午前と夕食後に制作会議とはなっていたが、午後はフリーとなっていて、他にやることもないので、スキーせざるを得ない環境。仕方無しにスキーをやることになりました。とは言え、もともと体育会系の気質もあったので、まぁやるからには、ちゃんとやりたいと思ってましたよ。その上、スポーツ全般得意でしたので、ちょろいものだと高を括っていたのも事実でした。
 そして合宿は始まり、顧問への挨拶から始まり編集会議あって、いざ雪上。そしてここで「スキー場で下手な奴は、牧場の魚よ」と、とある映画のセリフにもあるように、スキー場ヒエラルキーというものを知ることになる。
・初心者女子は顧問の下へ集められ講習会。
・初中級レベルの女子はスキーが得意な先輩男子の下に行き「おしえてくださ~い」となり和気あいあい。
・初中級レベル男子はどんどん好きに滑って腕を磨く。
・中級レベル先輩男子が、初心者男子を教える。
といった感じ。だがよほどの物好きじゃない限り男子にくっついて教えるなんてのは、面倒くさい話じゃないですか。ブーツはかせて、板にはこんなふうにつけて、スキーはハの字をキープ。って初歩の初歩を教えてくれたら、そのまま連れられて上まで。案の定、リフト降りるときに転びますわね。そして、ちゃっちゃと初級の滑り方のボーゲンを教えてくれて「後は、とにかく〝ハの字〟を広げるとスピード出ちゃうから、崩さずゆっくり下まで滑ってきて」と言い残し、先に滑り降りていった。ほんとただそれだけ。
そりゃあもう滑ってるんだか転んでるんだか。しばらくすると、先輩が後ろからやってきて「転ぶときは山の上のほうに体を倒すように」とか言って、またスイ~って先に行ってしまう。途中、他の先輩や同期の連中が労いの言葉や、軽いアドバイスをくれたりして、俺担当の先輩が4回くらい追い越すころにやっとゲレンデの下まで行けたかな。それを何度か繰り返しているうちに、初日が終わる。そのころには転ばずに初級コースは滑り降りれるようになっていたんだよね。そんな感じで残りの日程も、スキー時間はほぼ野放しにされ、追い越していく皆が少しづつアドバイスくれて、最終日には中級コースくらいまで、多少転びながらも滑り降りてこれるくらいまでになっていた。たまに足もそろえられるくらいまでにも。そうやって滑れるようになってくると、目線が足元ではなく上になるので、白銀に包まれた景色が目の前に広がっていたりする。で、なんか気持ちいいーってなったり。さらに、女性陣に「初めてでそんなに滑れるようになったんだ、すごーい」なんて言われると嬉しくなって「あぁ上手くなって教えたがる先輩方の気持ち解るなぁ」ってね。そして、帰るころにはすっかりスキーにハマってしまっていた。
そして追い打ちで拍車をかけたのが、帰りのバスの中で見たビデオ
『私をスキーにつれてって』これが、この後に人生でスキーにどっぷりと浸かるきっかけになったわけだ。バブル真っ盛りを象徴するホイチョイプロダクションが創った映画。先の「~~牧場の魚」は、この映画の中のセリフ。
スキー上手くなって映画の中のような恋がしたい。なんてね、またまた悪いムシが騒ぐわけで。
 そんな馬鹿な下心も持ちつつ、とにかくスキーがしたいとなるのだが、その時の季節は春。今シーズンはもうできないから(GWころまで滑れる山があるのを知るのは次の年のこと)、来シーズンがんばろってなる。あとはスキーするにはどうしたらいいか、道具をどうするかなんかを、秋まで試行錯誤する。そう思っているとスキーインストラクターやっているという人が、けっこう身近にいたりして11月には滑りに行くって情報を聞きつけ、車に空いているときでよいので一緒に乗せて連れて行ってくれと懇願。何度か連れて行ってもらうことができて、教えてくれたりもして、そこそこ足もそろえて滑れるようになったころ。
「ムサシさぁ、そんなに上手くなりたいなら、冬の間、俺がやってるスクールでイントラのバイトしながら覚えれば?」って唐突な提案「大丈夫、やる気あるなら俺が話し通しておくから、面接のときに2級程度は滑れるって言えば、何とかなる」と。
「マジっすか⁉」で、そんな話を本気にして面接に行き「2級レベルで滑れます」と言い放つ俺。話は通っていたので、なんとスキーインストラクターとして働けることに。
 12月の初旬にインストラクター業務の講習合宿があった。インストラクター経験者数人も含めて20人くらい参加だったかな。初日の講習会では皆デモンストレーターなんかが着ているようなウェアで身を包んでいて、見るからに上手い人達。遊びスキーの一般ウェアを着ているのは俺を含め数人のみ。それでも皆、俺とは比べ物にならないくらい上手くて、ひと滑りで実力不足が露呈。そりゃそうだわな。そんな初日だったけど、夜の座学的な講習のあとの飲み会で、なんとなく盛り上げ役になっていたら、岐阜の朴ノ木平のスクールの校長が「ムサシ、お前面白いからうちに来い」って声をかけてくれた。そのスクールは菅平と朴ノ木平に常設校があって、冬の間常駐する本業としている人以外は、基本的には菅平にて週末を中心に山に登って教えるアルバイトがほとんどであった。朴ノ木平は修学旅行などのスポット業務があるとアルバイトイントラを呼ぶこともあったが、基本的には1~2か月の間、山にこもる常駐勤務を必要としていた。しかも岐阜、飛騨高山から下呂温泉のある山に行くあたりにある。行くからには簡単に帰ってこれる場所でもなかった。もちろん学校も期末試験などが、まだあったので即答できずでしたが「その気になったらいつでも来な」って言ってくれたのが嬉しくて、学校の試験もいくつかを受けずに、1月半ばには岐阜朴ノ木平スキー場に登ってまして、スキーインストラクターとしてデビュー⁉となるわけでした。

さて、今回もこの辺でいったん〆させてもらいますね。
前置き長かったですね。スミマセン。
では次回
『スキーインストラクター(✕)でなくって 〝インチキ〟ラクター(〇)編②』
お楽しみに。


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