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短編『青の餞』

「先輩、辞めてしまうんですか?」
 仕事の休憩中、突然話を切り出した先輩に対して僕は困惑を隠せなかった。
「黙っていてすみません。もう再来月には東京にいないんです」
 彼女は申し訳なさそうに告げると、ゆっくりと僕から目を逸らした。一年程の短い付き合いではあるけれども、先輩が丁寧語以外で話をしているのを聞いたことがなかった。
 一月の半ばも過ぎた頃、休憩室は僕ら以外にも他のスタッフ達がくつろいでいて、少し混雑していた。僕は普段休憩室をあまり利用しないけれど、外の見晴らしが良い公園で休むにはまだ寒さが厳しいため、窮屈さを感じながら休みのひと時を過ごしていた。だから、ここで先輩と会って話をしているのは全くの偶然だった。
「ここの仕事は楽しいんですけど、やっぱり他にもやりたいことがあるんです」
 俯いた先輩は、コーヒーの缶を両手で包みながら淡々とした様子で続ける。
「ここで仕事を続けたままだと難しいから、一度実家へ戻ることにしたんです。新しい職はまだ検討もついていないですが、向こうで探そうと思っています」
 たしか実家は西の方にあるって言ってたな、と話の本質から駆け離れた思いに耽りながら、上の空で僕は会話を続けようとした。でも、自分の喉元からは何の言葉も出てこなかった。
「急にこんな話をしてしまったから困ってしまいますよね。すみません」
 先輩は缶コーヒーをテーブルに置いて、僕へ謝った。よく謝る癖も含めて、彼女を不器用だなと感じる場面は多々あった。けれどもそれ以上に、不器用ながら他人の為に動いたり、他人を想って言葉を届けたりしてくれる。先輩が持つ独特な遠回りの優しさみたいなものを、僕は好いていた。
「たしかに驚きはしましたけど、他にやりたいことというのは?」
 内心、口に出した以上に心臓の高鳴りは止まなかったが、平静を装って会話を続けた。
「趣味で絵を描いているんですが、本格的に取り組もうと思っているんです」
 少し微笑みながら答える先輩は、眩しく見えた。同時にその眩しさが、僕の心を少しだけ抉り取る。
「仕事を辞めて夢を追うって、素敵だと思います」
 頭の中を巡った色んな言葉から選び取ったそのセリフは、当たり障りのないものだった。僕が本当に伝えたい言葉とは、まるで駆け離れている気がした。
「そんな大したことじゃないんですけどね。でも、ありがとうございます」
 哀しそうに笑いながら、先輩は消え入りそうな声でお礼を告げる。それに対して僕は、何も言わなかった。
 何も、言えなかった。

 僕が先輩に対して持っている感情が何なのか、未だによく分かっていない。憧れや尊敬の念が強いのはあるが、それ一辺倒でもない。かと言って、恋心を抱いているわけでもない。どんな言葉を選んでも、この感情を一括りにすることは出来なかった。仮に出来なくても、これから一緒に仕事をして時間を重ねていく上で、この気持ちを知っていければいいと思っていた。
 けれども、先輩はいなくなってしまう。彼女を知る時間も、自分の感情を知る時間も、僕はもうすぐ失くしてしまう。

 休憩室で先輩と別れた僕は、まだ休み時間が残っているにも関わらず、仕事を再開した。自分のデスクに残っている書類を片付けようと、全く別の考えを頭に思い浮かべながら整理を続ける。
 少し落ち着いてから考えてみても、今の僕が持っている気持ちは自分でも理解が出来なくて気持ちが悪い。心の底に埋まっている、凍った塊のようなものが自分に何をもたらしているのか、知りたかった。
 先輩はずっと、自分が入社した時から面倒を見てくれていた。データの入力や書類のまとめ方の基本的なことから、ちょっとしたミスの誤魔化し方など、正しいこと以外の仕事も教わってきた。周りからは仕事が満遍なく出来ると自分は評価を貰っているが、先輩だけは細かい所まで自分の仕事ぶりを指摘してくれた。自分をちゃんと見てくれているのが嬉しかった。
 脳裏によぎるのは、先輩との他愛ない時間ばかりだ。仕事が多く精神的に厳しい生活も、色んなことを思い返すから乗り越えてこられた。
 お礼は、勿論伝えるべきだ。それ以外で、僕は先輩に対して何を伝えるべきなのか。どんな言葉を紡げばいいのだろう。
 今の会社に勤め始めて一年弱経つが、手が勝手に動く程度には仕事を覚え始めていた。いつの間にか、机上に積んであった書類はその姿を消していた。
 一息吐こうと椅子の背もたれに、体重を預ける。使い古された金属音が、フロアへ静かに響く。
 休憩室へ戻る前に買っていた缶コーヒーのプルタブを開く。一口飲むと、すっかり微温くなった苦味の強い感覚が、喉を通る。
 休憩の時間が終わり、パラパラと社員たちが各々のデスクへ戻っていく。僕は何も考えたくなくて、ひたすら新しい書類の整理に取り掛かった。

「今、大丈夫ですか?」
 仕事が終わり、帰路の準備をのんびりしていると、先輩に声を掛けられた。仕事中に余計なことを考え過ぎていて、彼女とまともに視線を合わせられなかった。
「どうか、しましたか」
 自分から出る言葉も、酷く霞んでいる。喉が渇いていて、まともに声も出なかった。
「いえ、実は仕事でお伝えし損ねていたことがあって」
 遠慮しがちに笑いながら、先輩は続ける。
「先週くらいに話した書類のまとめ方に関して、間違った方法を教えてしまっていたんです」
 言いながら、デスクのマニュアルが載っているファイルを取り出して、僕に見せてくる。
 そうして仕事の説明をしてくれる先輩は、いつもと様子が変わらなかった。面倒見が良くて、不器用ながらに詳しく説明を重ねてくれて、困ったように微笑む。
 普段ならその様子が嬉しくもあったけれど、今はその優しさに比例して、心がじんわりと痛んでいた。

「雪、ですね」
 先輩と一緒に会社の外へ踏み出すと、辺りに真っ白な雪が降り積もっていた。粉雪、と呼ぶにはいささか勢いが強く、地面も空も白く染め上げていた。
「雪、嫌いなんですよね」
 やはり先輩は困った顔で、空を見上げながら呟く。
「そうなんですか?」
「雪が降ると、足元も汚れますし。もっとふわふわした雪なら良いんですけどね」
 たしかに自分が以前住んでいた場所よりも都会の雪は硬く、すぐ溶けてしまう質の悪いものに思える。都会の空気がより汚いから、と聞いたことをふと思い出した。
「雪は、人間みたいですね」
 何となく思いついたことを口に出すと、先輩は不思議そうな顔で僕の言葉を反復した。
「人間、ですか?」
 僕は頷いて先輩から視線を外し、泥で汚れた足元の雪を見下ろす。
「綺麗でもあるし、汚くもなるから」
 僕は先輩の、綺麗な面しか見たことがない。ひょっとすると、僕には見せない負の面も兼ね備えているのかもしれない。
 それは僕自身にも同じことが言える。先輩に自分自身の汚れた面は見せているつもりはないけれど、自分の感情と向き合うために先輩との会話を利用しているのは、お世辞にも綺麗だとは言い難い。
「なんだか詩的ですね」
 クスリと笑みをこぼす先輩を見て、僕は急に恥ずかしくなって目を逸らした。なんだか、自分だけ小難しい、くだらないことに拘っているような気がした。
「急に変なことを言ってすみません」
 とりあえず謝ると、先輩は慌てて両手を振って答える。
「いやいや、そんなことないですよ。ただ、私はそんな考え方は出来ないというか、何と言うか」
 曖昧に言葉を濁す彼女を見て、僕は少しだけ安堵する。きっと、足元の汚れた雪みたいな面が先輩にあったとしても、僕には一生見られないんだろう。 
「でも自分は、雪が好きです。たしかに足元が汚れる時もありますけど、それでも空を見上げた時は、綺麗だと思えるから」
 だから先輩も、雪が嫌いだなんて言わないでください、とまでは流石に伝えなかったけれど、自分の心に残っている気持ちを、素直に言葉へ変えてみた。
 僕の青いセリフを聞いた先輩は、やっぱり戸惑いながら微笑んでいた。

 僕は人に抱く好意的な感情が、自分で分からない。その部分だけがどうしても欠陥しているから、先輩をどう思っているのか、僕はどうしたいのか、上手く言葉に出来ない。だからこうして、先輩がいなくなってしまう前に以前より色んな会話を重ねていた。自分自身が先輩をどう思っているのか、少しでも答えに繋がるヒントを見つけられれば、とも考えていた。
 けれども会話をすればする程、先輩の性格は理解出来ても心が見えてこなかった。彼女が選びそうな言葉は分かるようになったけれど、その言葉を選んでいる理由が分からなかった。
 理屈は簡単なはずなのに、ただ相手を理解するのが、僕には本当に難しく感じられた。

 翌月になると、先輩が年度いっぱいで退職になる情報が会社の朝礼で周知された。仕事が早く、気も利く貴重な人材だったからか、朝礼の後には周囲に人集りが出来ていて、各々に声を掛けられていた。励ましの言葉なのか、惜しむ言葉なのか。先輩が何を聞いているのか少し離れた自分の場所からは分からなかったけれども、終始困ったように笑っていた。
 駆け寄って僕も話しかけるべきなのだろうか。先輩と話をする時は、他の人とコミュニケーションを取る場合よりもより多くの言葉を選んでいると思う。どんなふうに返事が戻ってくるのか、それに対して僕はどんな感情を抱いているのか。何よりも一番知りたいことだった。
 人に囲まれた先輩が僕の視線に気が付いて、こちらにも軽く微笑みかけてきた。自分の考えを何となく見抜かれている気がしたので、思わず目を逸らしてしまった。

「人に囲まれるのも、中々疲れますね」
 仕事も終わり、また先輩と僕は駅まで帰路を共にした。会社を辞めると知られた先輩は、いつも以上に忙しそうだった。普段は落ち着いて黙々と仕事をこなしている姿が多いので、疲れが出ているのかもしれない。
「どんなことを、言われたんですか?」
 単純に気になったので聞いてみると、少し考えてから静かに答えた。
「そうですね、ありがたいことに辞められると仕事が回らなくなる、って言われたのが一番多かったですね」
 少し嬉しそうに答える先輩へ、僕も苦笑いしながら同じ話題を返す。
「自分も、面倒を見てくれる先輩が居なくなると大変だな、という言葉をいくつかいただきました」
 実際に同僚の何人からか言われたけれど、正直に言うと仕事についてはどうでも良かった。
「しっかりしているから、私がいなくても大丈夫ですよ」
 何気なく励ましをくれる先輩の言葉は嬉しくもあったけれど、心の何処かに少し引っ掛かりを覚えた。
 寂しさでも哀しさでもなく、どちらかというと、憤りとまではいかずとも、悔しさに近い感情。それを認識した時、自分でも驚いて表情が顔に思わず出てしまった。
「どうかしましたか?」
 心配そうに見つめる先輩に、慌ててかぶりを振った。
「いえ、何でもないです」
 僕は今、何を考えていたのだろう。自分でも理解が追いつかない感情を抱えていて、戸惑いを隠し切れなかった。
「すみません、あまり見たことのない顔をしていたので」
 素っ気ない返事になってしまったからか、先輩が申し訳なさそうに俯いた。彼女の発言に悪気があったわけではないのは分かっていたので、僕も口を噤んでしまい、二人の間に気まずい空気が流れる。
 残り少ない先輩との時間を、こんな状態にしたくなかった。きっともう、あと何度かしかお互いにコミュニケーションをとる時間がない。言いたいことも聞きたいことも、時間が足らないくらい山ほどあるはずだ。けれど、そんな自分の意思とは裏腹に、僕は言葉を紡げないでいる。
 先輩といると本当に調子が狂って、自分が分からなくなる。だからこそ、彼女と交わす言葉をひとつひとつ大切にしたかった。
 黙ったまま横目で先輩の方を窺うと、その横顔にはいつもより困惑した表情が浮かんでいた。彼女は会話において、沈黙に耐えられないタイプなんだな、と最近知った。頭の中であれこれ考えて、自分に聞きたいことを探してくれているのかもしれない。
「先輩はチョコレートとクッキーなら、どちらの方が好きですか?」
 少し話題を変えようと思い立ち、遠回しで気になっていたことを聞いてみた。仕事を辞める時に、何か渡せるものがないか探して悩んでいたところだった。ある程度の好みが聞ければ、少しは贈り物も選びやすくなるかもしれない。
「退職祝い的なものだったら、いらないですよ。気が引けてしまうので」
 てっきり、少し悩んだ後にチョコレートかクッキーのどちらかの解答を貰えるとばかり思っていたので、自分の考えを見抜かれた台詞に虚をつかれた。重ねて、自分がこの質問を先輩にするのが分かっていたみたいに即答されてしまったので、一瞬押し黙ってしまう。
 何より、先輩が明確な意思を持って、何かを拒む姿を初めて見たので、僕は言葉を失ってしまった。
 よほど自分の表情に出ていたのか、先輩が慌ててフォローを入れた。
「いや、本当に大したものは大丈夫なので気にしないでください」
 先輩が頑なに贈り物を拒否する理由は分からなかったが、先程自分の中で感じた憤り悔しさに近い感情が、心の底に過ぎる。今回は明確な原因が、自分の中で分かっていた。
 誰かに何かをプレゼントするのは、もちろん相手に喜んで貰いたいという目的も大いにある。けれどもそれとは別に、贈り物とは相手と一緒に時間を過ごした対価として渡すものなんじゃないか、と個人的には考えている。
 先輩が言う通りに大したことがないものを渡してしまえば、その相手と過ごした時間も価値が薄れてしまう気がする。
 先輩に限った話ではなく、誰かへの贈り物は精一杯こだわりたい、という信条が僕の中にはある。単なる押し付けだと言われても、この気持ちを大切にしていたい。
「それは嫌です」
 悩み抜いた末に、僕は先輩へ結論から口を出した。
「感謝しているから、ちゃんとしたものを渡したいんです。だから、気が引けるなんて言わないでください」
 先輩は少し目を見開いて、そうでしたか、と小さな声で呟いて俯く。先程の僕も、きっと同じような反応をしていたのだろう。けれども、こちらから彼女が浮かべた表情は確認できなかった。
「それなら、ちゃんといただかないとですね」
 顔を上げた先輩は、変わらず困った笑顔を浮かべていた。

 翌日会社へ出勤する途中の道のりで、数少ない同期に珍しく出くわした。
「久しぶり。出勤前に会うなんて珍しいね」
 彼女は優秀で、僕よりもよっぽど重要な部署で重宝されている。この一年で何故ここまで差がついたのか、よく分かっていない。近況を報告しあっているような仲でもないので、ここ二ヶ月ほどは会話もなかった。
「うちの部署でも話題になってるけど、先輩が辞めちゃうんだって?」
 僕も同期である彼女も、初めは先輩から直接研修を受けて仕事の基本を覚えている。部署こそ変わってしまったものの、僕と同じく先輩を慕っていた。
「そうなんです。今もたまに先輩と仕事の案件が一緒だったりするので。色んな人から仕事が回らなくなる心配とか、補充要員についてとかは聞くことが多いですね」
 彼女は僕の話を聞いてしばらく考え込んでから、首を捻りながら呟いた。
「いや、私が言いたいのはそういうことじゃなくてさ」
 自分が的を得ていない発言をしたつもりもなかったので、同じように僕も首を傾げる。
 先輩がいなくなるのは、当たり前だが仕事にも影響が出る。今まで対応して貰っていた分の業務が、僕のいる部署に降りかかるだろう。これから残業も増えるかもしれないし、忙しなくなることに間違いはない。
「仕事が大変だとか忙しくなるとか関係なくさ。先輩がいなくなっちゃったら、君が一番寂しいんじゃないの?」

「あ───」

 当たり前だ、と言いかけて、昨日の心に残った引っ掛かりの正体にようやく気がつく。
 僕は、先輩と話せなくなるのが寂しかったのか。
 仕事のことなんて関係ない。これから共に時間を過ごせないことが、何気なく会えなくなることが、どうしようもなく嫌だった。ただ、それだけだったんだ。
 黙ったまま呆けている自分を横目に、彼女も神妙な表情を浮かべながら続ける。
「私は細かい事情を知らないけど。先輩との残りの時間をさ、後悔のないものにした方がいいんじゃない?」
「それは、たしかにそのとおりですね」
 好きで悔いを残したいわけじゃない。けれども、このまま残された時間を過ごしても、後悔は必ず生まれる。未だに本音を取り繕って、本当に先輩へ言いたいことは何も伝えていないのだから。
「ありがとうございます、なんだか心に余裕が出来ました」
 彼女の助言が聞けたことは大きい。誰かに相談するつもりは端から考えていなかったが、他人に気付かされることもあるものだ。
「なんか死にそうな顔してたからさ。声掛けておいて良かったよ」
 じゃあね、と笑いながら、彼女は自分の部署がある方のビルへ向かって行った。
 次に会うのが半年後かは分からないが、今度は飲み物でも奢ってみよう、と唐突に思いついたが、その考えが自分に似合わなくて苦笑を漏らしてしまう。
 今までもこうやって、簡単に人との関わりの輪を広げてきた。でも、先輩が相手だと、沢山のしがらみに囚われてしまう。
 自分にとって先輩が特別なのは、もう認めている。
 先輩がここを去る頃、一体僕はどんな気持ちでいられるだろう。

 春が訪れて気候も暖かくなり始めた翌月、仕事が終わり一階のエントランスまで足を運ぶと、微かな雨音が耳についた。少し嫌な予感がしてオフィスのガラス扉から外の様子を窺うと、聞いていた以上の雨が降り続いていた。カバンを確認してみるが、あいにく折り畳み傘は持ち合わせておらず、どうしたものかと途方に暮れる。
 雨を被って帰るのは構わないが、後で家に戻ってから乾かすのは手間だ。かと言って、今から事務室へ傘を借りに行くのも手続きをするのも面倒だ。どちらかを選ぶにしても、言い訳ばかりが頭に浮かんできてしまう。しかし、帰る時間が遅くなることが一番嫌ではあったので、二つの選択を頭の中の天秤に掛け、傾いた方を実行しようと足を一歩踏み出す。
「雨、降ってますよ?」
 振り返ると後ろには、困った様子で僕を呼び止めた先輩が佇んでいた。
「傘がないので、いっそ水浸しになって帰ろうと思っていたのですが」
「それは風邪引いちゃいますよ」
 至極真っ当な意見を重ねてくる先輩へ、特に僕から言えることはない。彼女が言っていることはどうしようもなく正しい。
「まぁ、私も傘を持っていないので人のことは言えないんですけどね」
 苦笑して答える先輩に、僕もつられて微笑んでみる。何か示し合わせるわけでもなく、僕らは並んで外の雨脚を無言で眺める。
 こういう何気ない時間が好きだった。けれど欲しがったものほど、自分の手から遠ざかっていくことを僕は知っていた。
 先輩の持つ優しさには掛け値が無い、と僕は個人的に思っている。裏がなく、計算されていない、純粋な優しさに感じられる。一年にも満たない付き合いなので、心の底がどうなっているかまでは知らないけれど、少なくとも僕にはそう見えていた。
 そんなことを考えながら、僕はふとあることを思いつく。
 先輩について悩んでいる感情があるなら、本人に思っていることを直接聞いてみたらどうなるだろうか。上手く言葉に表せない部分も正直に伝えたら、何か分かるかもしれない。少なくとも、気まずくなることもないだろう。
「あの」
 悩んだ末に話し始めたからか、あまりボリュームの調整が出来ずに大きめの声が思わず出てしまった。
「はい、どうしましたか」
 急に声を掛けられたからか、先輩も驚いた風に反射的に返事をする。
 そんな他人の様子を見たからか、心が落ち着いた気がした。固くなっていたであろう表情を崩し、僕はゆっくりと言葉を続けた。
「真面目な話があるんですが、お聞きしてもいいですか」
 少し呆気に取られていた先輩も落ち着いたのか、いつも通りの態度に戻っていた。
「はい、大丈夫ですよ」
 僕自身の感情の話を先輩にぶつけるのは、彼女の優しさに甘えた傲慢なことかもしれない。腹は括ってみたものの、やはりあまり聞きたくはなかった。
 それでも僕は、知りたい。先輩のことも、自分の感情も。
「先輩が辞めると決まってから、頭の中で色んなことを考えています」
 困った笑みを浮かべた先輩は、俯きながら呟く。
「それは何というか、やっぱり悩ませてしまっていたらすみません」
「いえ、先輩が悪いとかではないのですが。勿論いなくなってしまうのは寂しいです」
 本当はもっと、仕事についても趣味についても、聞きたいことや言いたいことは沢山ある。けれども、そういった小さな積み重ねが仲を深める時間は、もう残されていない。
「自分は先輩を、もっと知りたいんです。ちゃんと知ってから、お別れしたいんです」
 職場での他者との関係なんて、薄く繋がっては流れゆくものだ。それぞれの事情で出会いは終わりを迎えて、程々に心を痛めながら別れを惜しむ。そうして新しい出会いがやってくる繰り返しだ。誰もがいずれ、仕事を辞めたり転職したりと、その職場を去る。同じ場所に留まり続ける人など、ほんの一握りだろう。
 けれど僕は、先輩との出会いをそれで終わらせたくなかった。この繋がりがやがて途切れて流れ、二度と会わないような別れにしたくなかった。
「だからあと少しだけ、僕に先輩と関わる時間をくれませんか?」
 僕の話を聞き終わった先輩は、一度考え込む様な仕草を見せたまま黙り込んだ。静まり返ったエントランスに、微かに弱まった雨音のみが響いている。
 今、先輩は何を考えているのだろう。いつまで経っても彼女が持っているかもしれない二面性を見抜けなかった僕では、見た目だけでは分からなかった。
 僕は人付き合いをする中で、好意的に接してくれる人や、あるいは避けてくる人など、自分に対してどんな感情を持っているか気がつくのに敏感だった。それによって人と関わる距離を変えながら生きてきたので、一種の習性に近いものなのかもしれない。
 けれどいくら話を重ねども、先輩との距離感はずっと測りかねていた。優しい面しか見せないと思ってはいるけれども、拒絶するときの意思ははっきりしている。プレゼントの話をした時もそうだった。ただ流されるだけじゃなく、望んでいないものはちゃんと断る人だった。
 良くも悪くも、本音が全く見えてこない。それが今の僕にとっての先輩の認識だった。
「なんというか、ですね」
 隣に並んでいた先輩は、言うことがまとまったのか、ゆっくりと話し始めた。その言葉を聞くと同時に、背中に緊張が走る。
「あまりよく分かっていないのですが、私と友達になりたいということでしょうか」
「いや、え?」
 今度は逆に、僕が先輩の言っていることに理解が追いつかず、反射的に聞き返してしまう。
「あれ、違いましたか。見当違いだったらすみません」
 やはり困ったように言う先輩は、手を振って慌てている。そんな様子を見ていた僕は、思わず言葉を失くした。
 ああ、きっと。彼女は本気で言っている。
 僕の悩みだとか考えだとかを構わず一蹴するみたいな、的外れな答えだ。だけど、その的外れな場所に、自分の凍りついた心があった。
 複雑な事情なんて必要ない、簡単な言葉。
 先輩の選んだ『友達』という言葉が正しいかは分からない。けれども、それを聞いて色んな気持ちがない混ぜになり、僕は少し泣きそうになるのを我慢する。
「いや多分、それで合っています」
 振り絞って出した声は僅かに掠れていて、聞き取りづらかったかもしれない。
 先輩と話を重ねようとしていたのは、結局僕自身のためだった。先輩と話がしたい以上に、彼女へ持っている感情をを知りたいがための、自分の我儘。
 それでも良い、と何度も思ってきた。けれども、もし先輩が辞めると知ってから、他愛ない会話を重ねるだけに留めていたら、もっと違う関係になれていたかもしれなかった。それこそ、先輩が言う『友達』に。
「何というか、ありがとうございます」
 改めてはっきりと声に出して、僕は先輩に告げる。簡単に見えるけど、きっと何よりも難しい。それは、相手へ思った通りに言葉を伝えることだ。
「はい」
 先輩は言葉こそ少なかったけれど、何の躊躇もなく答えてくれる。その表情を見て、自分が向けた言葉はちゃんと伝わったんだな、と悟る。
 この時初めて、彼女の純粋な微笑みを見られた気がした。先輩を困らせないようにする答えは、思っていたよりずっと単純だった。

 雨も上がり始め、僕は先輩と並んで帰路を辿る。車の通りも少なく、足音だけが街並みに響く。おそらくこの時間も、あと数回しか過ごせないだろう。
 もう先輩へ無闇に質問を繰り返すのはやめたかったけれども、まだ聞き残していたことがあった。彼女が去る前に、聞いておきたかった。
「先輩にお聞きしたかったのですが」
 言いかけたところで、やはり先輩は困った顔で苦笑を浮かべながら、僕の言葉を止める。
「軽く考えて聞いてもらって大丈夫ですよ」
 癖が抜けなくて、つい堅苦しいセリフを選んでしまうのは、すぐ変えられそうにない。すみません、と一言謝ってから僕は続ける。
「先輩は、絵を描いてたんですよね?」
 彼女は頷くと、僕に目線を合わせながら応える。
「そうですね。最近は描いていないですけど、描き始めると楽しいんですよね」
 僕は目線を先輩から外して、足下の水溜りを目で追う。空にで始めた夕陽が反射して、周りが鏡のように映る。水溜りに対して、こんな綺麗なイメージを持ったのは初めてだった。
「絵の道を選んだことに、後悔はないんですか?」
 絵を描くのも音を奏でるのも、芸術と本気で向き合うのは楽しいという感情だけでは成り立たないだろう。悔しい思いをすることもあれば、辞めようと思うこともあるのかもしれない。色んな環境や状況に振り回されて心を折られずに何かを続けるのは、精神的にも難しい。
 先輩は、どうやって絵を描くことと向き合っているのだろう。
「そうですね、もっと昔から色んなことを自主的にやっておけば良かったな、とは思いますけど」
 一度言葉を区切ってから、迷いのない声で先輩は続ける。
「でも、絵を選んだのは後悔していないです。好きでやっていますから」
 それを言い切れる彼女は、今までどんな悩みを乗り越えてきたのか、何を切り捨てて、何を拾ってきたのか。その過程は分からないけど、好きだから続けてきた、という答えはきっと尊いものだ。
「それは、素敵ですね」
 その迷いのないところに、僕は惹かれたんだろう。

 取るに足らない会話を重ねながら駅の構内に辿り着くと、仕事や学校終わりの人々で賑わっていた。部活帰りだろうか、ジャージを着た少年少女達が僕らを追い越して楽しそうに歩き去って行く。その無垢な様子が、なんだか少し羨ましかった。
 先輩との会話が途切れて、二人とも無言のまま改札をくぐる。同じ駅のホームへ向かってはいるが、乗る電車は違う。
 昇りのエスカレータでふと後ろを振り返ると、段差が一段下がった場所にいる先輩と、同じ高さで目が合う。普段ならない状況に、場違いな珍しさを感じた。
 エスカレータから駅のホームへ足を踏み出すと、電車がちょうど走り去って行くのが見えた。徐々に加速して、僕らのいるホームから遠ざかる。あれは多分、先輩が乗る方向の電車だった。そして、もう片方の路線に到着していた車両へ目を移す。僕の乗るべき電車だった。
 先輩は次の電車を待つだろうからと、僕は乗るべき車両には足を進めず、ホームに立ち止まる。先輩も同じく足を踏み止めると思っていたけれど、彼女はそのまま僕が乗るべき電車のドアへ歩を進めた。
「乗らないんですか?」
 きょとんとした顔で首を捻る先輩に、同じく疑問だった僕も質問で返す。
「いえ、先輩もこっちに乗るんですか?」
 僕の表情に納得したように、彼女は笑いながら答える。
「さっき行ってしまった電車に乗れなかったので、こっちの方が早いんです」
 なるほど、と一言返して、僕も車内へ足を運ぶ。各駅に停車するこの電車は進みも遅いからか、退勤時のこの時間は空いていた。
 僕と先輩は席には座らず、開いていない反対側のドアに向かい合って寄り掛かる。しばらく無言でいると、やがてドアが軽快な機械音をたてて閉まる。いつも乗っているものと変わらないはずのゆっくりとした走行音が、はっきりと耳に響く。ドアにある窓の外から、後ろに流れていく黄色と黒の踏切バーや信号の赤色が、自分の両目へ鮮やかに映る。普段よりもあらゆる感覚が冴え渡っているみたいだった。
 きっと、二度と訪れないこの時間を、記憶に焼き付けたかったからだ。
「あの、先輩は」
 無意識に自分から言葉が出たが、口を紡いで一旦黙り込む。反応した先輩が、窓の外から僕の方へ視線を移す。
「東京へは、もう戻ってこないんですか」
 声が震えないように、文言を噛まないことに精一杯の気を払いながら、何とか聞きたいことを伝えた。それを聞いた彼女は僕から目を逸らし、再び流れる景色を眺めながら小さな声で呟く。その顔に、いつもの笑顔は浮かんでいなかった。
「そうですね。戻って来ないと思います」
 電車がたてる音に掻き消されそうな答えを聞いた時、頭の中にじんわりと痛みが広がっていく。何となく予想していたけれども、想像以上にその答え合わせは僕の胸に刺さった。  
「お金が貯まったらですけれど、次はもっと西の方へ行ってみたいと思っています」
 先程とは打って変わって、楽しそうな様子で先輩は喋り始める。具体的にどんな場所へ行きたいんですか、と僕もその様子に乗っかって、話を続ける。
 刻々と、他愛ない時間は過ぎていく。
 五分もすると、先に僕の方が目的地の駅に降りて、先輩だけが乗っている車両を見送る。電車がスピードにのって通り抜けて吹く風が、よく目にしみた。

 日々を噛み締める間もなく、あっという間に先輩の職場での最終日を迎える。仕事をしている最中、僕は普段と変わらずに振る舞っていたけれども、なるべく先輩とのコミュニケーションを避けるようにしていた。最後の時間を何気なく一緒に過ごしたかった気持ちもあるけれども、少しでも話をすれば、抑えている感情が何かしら決壊してしまうような気がしていた。
 始業すると書類を捌く量もスピードもいつもより効率よく進み、頭も冴え渡っていた。無駄に作業が捗っている理由も、自分ではよく分からなかった。分かりたくないだけで、何も考えないふりをするのが上手いのかもしれない。
 作業をしながら辺りを見渡すと、少し離れた前のデスクで先輩を見つける。特に変わった様子もなく、普段通りに働いている姿が目に映った。僕と違ってふりではなく、今日が最後だというのを本当に気にしていないのだろう。
 しばらくすると、おもむろに先輩が立ち上がり、思わず僕は目を逸らして作業に戻る。足音がこちらに向かってくるのを聞きながら、目の前のディスプレイから顔を上げる。
「すみません、この書類もお預けして大丈夫ですか?」
 言いながら先輩が、僕の作業デスクに数枚の書類を置く。彼女の顔を見ないまま、曖昧に返事をする。
「大丈夫ですよ、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。お願いします」
 それだけ伝えて先輩は自分のデスクへ戻って行く。
 自分がどんな表情を作っていたかは知る由もない。けれど、どうせなら先輩の顔を見ておけば良かったな、と少し後悔した。

 今日の仕事が終業になると、同じ部署の人々は揃って、休憩室へ向かう。先輩へのちょっとした送別の挨拶があるからだ。僕もその人混みに紛れて移動しつつ、自分の荷物が置いてあるロッカーへ目的の物を取りに行った。
 ロッカーの傍に保管していた、先輩へ渡す花束の入った紙袋を手に取る。花束を渡す役をやりたい、とダメ元で言ってみたところ、同僚や上司が快く承諾してくれた。僕が選んできたのは、沢山の白いかすみ草の花束だった。その束の真ん中に咲いている鮮やかな紫色の花は、ラークスパーと言うらしい。
 あと数分後に、これを先輩に渡す。その時、僕はどんな表情をしているのだろう。彼女に対してどんな言葉を見つけているだろう。

 花束を持ってそっと休憩室の扉を開けると、既に多くの人が集まっていていた。扉を開けたことで僕に多くの視線が集まる。あまり注目されたくなかったので、そのまま部屋の真ん中で待っていた先輩の元へ向かう。送迎の挨拶が始まると思ったのか、周りが静まり返る。
 僕が先輩の目の前に立つと、自然と目が合う。待たされていて中途半端な立ち位置にいたからか、少し居心地が悪そうに彼女は苦笑していた。
 こんな顔を見られるのも、最後かもしれない。
 そう思った瞬間、涙腺が緩みそうになる。慌てて涙を押し留めて、そのまま先輩へ花束を差し出す。
「今まで、ありがとうございました」
 特に捻らず送った僕の言葉に続いて、周りから拍手が起きる。役目を終えた僕はすぐにその場から一歩下がって、休憩室の壁に背中を預ける。そのまま始まった先輩からの最後の挨拶を、黙って聞いていた。
 涙は、何事も無かったようにもう引っ込んでいた。

 送迎の挨拶も終わり、そのまま帰る準備をする人、思い出話に浸る人、先輩にプレゼントを渡している人など、自然と解散の流れになっていた。誰かを送る側としては名残惜しい気持ちもあるけれど、逆に帰るタイミングというのも図りづらい。この妙な雰囲気は、人によっては居心地が悪いものだろう。
 けれど今回僕はそんなことを言っている場合でもなく、個別に用意したプレゼントを持って、先輩の周りから人が捌けるのを待つ。俯いて視線を落とし、ふとプレゼントの包みを持っていない方の、自分の左手の掌を見つめる。

 いつからかは思い出せないけれど、自分の感情の行き場が分からなかったせいか、欲しいものには手を伸ばさない性格になってしまった。いくら欲しがっても結局自分の手には入らないものなんだと、どこか醒めた目で僕を見ているもう一人の自分が、いつも頭の中にいた。
 それは人に対しても同じだった。友達や恋人であろうと、あるいは家族であろうと、結局は他人なのだと結論づけていた。だから今まで特別に誰かを求めなかったし、他人には総じて深く踏み込まずに境界線を引いてきた。誰かを求めて失くすんだったら、最初から持っていなければいい。ずっと、そう考えて生きてきた。
 先輩との別れで涙を流すなんて間違っている。それではまるで、僕が先輩に何かを求めて手を伸ばして、結局手に入らなかったみたいに思えるからだ。だからさっき出掛かった涙も、きっと気の迷いだ。

 何も手に入らないであろう掌から視線を外して顔をあげると、ちょうど他の人と話を終えた先輩と目が合う。
 目を逸らさずにそのまま先輩の前まで歩き、右手に持っていた小さな青い包みを渡す。
「どうぞ」
 プレゼントには、チョコレートとクッキーを両方入れた。結局どちらが良かったのか、答えを聞けなかったからだ。
 一言だけ添えると、受け取った先輩は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
 この表情を見られるのも、声を聞けるのも、今日で終わりだ。
「あの、自分は先輩に───」
 お礼を伝えたくて、と言葉を続けようとしたけれども、声が出なかった。声の代わりに、僕の両目から涙が溢れてきた。
 いくら言い訳を並べても、自分は先輩に対してちゃんと泣けるんだな、と他人事みたいに考えながら、それでも必死に言葉を紡ごうと喉を無理矢理震わせる。
「ずっと、先輩には色んなものを、もらっていました。だから───」
「はい」
 優しい声が聞こえるぼやけた視界の先で、先輩が少し困りながら微笑んでいるのが見えた。
 心の底で、ずっと名前を付けられなくて凍っていた感情が、涙で溶けて壊れていく。強く想っている誰かが離れていってしまうのが辛くて苦しいのは分かっていたから、手を伸ばしたくなかった。
 手を伸ばさずに忘れることも出来たはずだった。別れの日は辛くて苦しいけれど、時が経てばこの感情も薄れていく。しばらくは職場までの行き帰り道や駅のホームで、先輩との記憶の名残りを思い返すかもしれないけれども、今持っている感情が溢れ出すことはないだろう。
 でも僕はこの感情を、忘れたくなかった。いずれ忘れるのがたまらなく嫌で悔しかったから、涙を流した。
 聞きたいことも言いたいことも、まだまだ沢山あった。この気持ちのまま、まだ先輩と話がしたかった。
 一度涙を拭って、はっきりとした視界の中で先輩の顔を見据える。呼吸を整えて、選び取った言葉をはっきりと声にする。
「必ず、先輩へ会いに行きます。その時は、また会って話をしてくれませんか」
 彼女は優しい人だから、答えはもう知っていた。 
「はい、是非。その時は色んな場所へ案内しますから」
 それは先輩の意思というより、優しさから出た言葉だというのは何となく分かっていた。
 けれど、いずれまた会えるなら今はそれでも良いと思えた。
 僕が泣きながら伸ばした手は、きっと無意味ではなかったのだから。
 明日からもずっと、先輩とまた会える日を、青い空の下で待ち続ける。

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