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「ポスト・アイデンティティ」という話

アイデンティティ不要論

 わたしとは誰なのか。自分とはどういう人間なのか。誰もが成長過程で突き当たる問題だと思います。そして、自分はどういう人間なのか、他者と比較をする中でアイデンティティを確立してゆく。


 アイデンティティは、自己形成に必要不可欠なものとして考えられがちです。「私は男である」「私は女である」「私はトランスジェンダーである」「私は日本人である」「私はアメリカ人である」というようなアイデンティティを持つことが人間の成熟には必要不可欠なものであり、自己を理解するためにもアイデンティティが必要なのだと考えられています。


 アイデンティティは、「自分が何者なのかわからない」という未知の自己への不安を取り除き、自分を鼓舞するものになる場合があります。例えば、「私は誇り高き日本人だ」というようなナショナリスティックなアイデンティティは、「日本人である」というアイデンティティによって、自分を鼓舞しています。


 しかし、アイデンティティは時として、自己も他者も傷つける場合があります。どういうことでしょう。例えば、先ほどの「私は誇り高き日本人だ」というアイデンティティの例で考えてみましょう。


 「私は誇り高き日本人だ」というナショナリスティックなアイデンティティは肥大化した場合、日本人ではない人間への攻撃性が増します。「あいつは日本人ではないから駄目だ」というような外国人への差別的な言葉を思い浮かべれば、アイデンティティに他者への攻撃性が含まれることがわかると思います。


 そして、アイデンティティは他者のみにあらず、自己への攻撃性も持っています。例えば、「自分は日本人であり、誇り高い存在でなければならない。にもかかわらず、自分はどうしようもなく駄目な人間だ」というようなアイデンティティと実際の自己との間にある乖離が自分を苦しめる場合があります。アイデンティティが示す自分とは違う自分でいることが苦しいわけですから、アイデンティティが自己を攻撃しているというわけです。


 アイデンティティという概念にはいくつもの問題があります。にもかかわらず、未だに人々は「アイデンティティの確立=人間の成熟」と考えている。そして、「アイデンティティがないと(人間として)いけないんだ」という強迫観念に襲われ続けている。こうした状況を社会学者の上野千鶴子は次のように説明しています。


人はアイデンティティを必要とする、人はアイデンティティなしでは生きられない、アイデンティティの確立した人はそうでない人より成熟している・・・・・・さまざまな言い方であらわされる「アイデンティティ」についての仮説を、本書では「アイデンティティ脅迫 Identity obsession」と呼ぼう。
(上野千鶴子 『脱アイデンティティ』)



 では、なぜ「アイデンティティ脅迫」というような攻撃性のある概念を未だに私たちは使い続けているのでしょうか。本稿では、アイデンティティを精神分析学、心理学、社会学、政治学、フェミニズム理論、クィア理論、哲学、ジェンダー理論と、あらゆる学問から横断的に分析してみようと思います。まずは、そもそもアイデンティティとは何か、その起源から迫ってゆきましょう。


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