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「日本仏教の戦争責任」という話

まえがき:「仏教と平和」という欺瞞

 近頃、日本の仏教界で世界情勢の悪化に合わせて、世界平和を祈る法要が営まれていると言ったニュースや記事を目撃するのだが、そのたびに、過去の日本の戦争行為を仏教思想が正当化した歴史を都合よく無視して、平和だの、祈りだの、どの口が言えるのだろうかと思えてしまう。

 世界平和を望み祈ること、それ自体は別に悪いことではないのだが、過去に自分たちが戦争を肯定してきた不都合な歴史を無視し、その反省もせずに、「平和が大事」だの「戦争はいけない」だの言っている仏教界の姿は、私の目には、かなり不誠実に映る。

 誤解をされたくないので私もはっきりと立場を示しておきたいのだが、私自身、戦争には当然反対している。平和である方が良いに決まっている。だから、平和を望むものという立場で私と仏教界とでは違いはない。そこを争い合うつもりはない。私が日本仏教界を批判している点は、平和を祈っていることではなく、過去の戦争を擁護した歴史を無視し、反省もせずにいる不誠実さである。

 だが、私が今の日本仏教の不誠実さに憤りを感じている反面、もしかすると、日本仏教が戦争を正当化してきた歴史があること、それ自体を知らない人間が多いのかもしれないとも思うようになった。

 つまり、日本仏教は常に清廉潔白で、まさか戦争行為を擁護してきた歴史があるとは思っていない人が多いのではないかと。だとするならば、反省できないのも無理はない。

 過去の日本の軍拡化、帝国主義について宗教的側面から論じる時、主に登場するのは「神道」だ。「国家神道」による日本の極右化が戦争を招いたのだといった論説は多い(実際、私も「国家神道」が人々を戦争へ駆り立てたという見立ては正しいと思う)。

 しかし、仏教が人々を戦争へ駆り立てたと指摘する論説はあまり多くはない。ここに一つの歪みを感じる。過去の戦争加害を招いたのは「(国家)神道」であって「仏教」は何も悪くなかった、と人々が思い込んでしまっている背景には、そのような歪みがあるからではないかと思える。

 私は本稿を通して、日本仏教がいかに戦争行為を正当化し、人々を戦争へと駆り立ててきたかを暴き出して、その歪みを正したく思う。


第Ⅰ章:国家にすり寄る仏教

 日本史には「廃仏毀釈」と「神仏分離令」という興味深い宗教的な出来事があることが知られている。神仏分離令は、日本を西洋列強国に負けない強力な近代国家に作り上げるために明治政府が行った政策である。それまで神仏習合していた仏教と神道を分離し、神道を中心に、より正確に言えば神道の神である天皇を中心に国民国家をまとめることで統率の取れた強力な国家体制を生み出そうとしたのが神仏分離令だ。

 廃仏毀釈運動は、この神仏分離令という公的な政策を拡大解釈した国学者や為政者、庶民が、仏像や寺院の破壊活動、僧侶の殺害などを行なったことである。

 神仏分離令を行なった明治政府は、明らかに仏教と敵対している。このような国家的な宗教弾圧に仏教は当然抵抗するだろうとも考えられたが、実際はそうはならなかった(もちろん、小さな抵抗くらいはあったが)。仏教界はこうした国家的な弾圧に抵抗するのではなく、むしろ、国家にすり寄ることで自分たちの身を守ろうとした。浄土宗の僧侶であり、作家でもある鵜飼秀徳は次のように述べている。

 本書では、まず大衆主導で行われた”私的な”廃仏毀釈にたいして、明治新政府による”公的な”仏教弾圧を取り上げる。寺社領が召し上げられた上知令、肉食妻帯などを許した僧侶の俗化政策、僧侶の職業化などである。こうした仏教への政治の圧力は仏教者を怯えさせた。仏教側、特に浄土真宗は極端なほどに恭順の姿勢をみせ、それは国家への献金運動などに発展していく。結果的に、富国強兵、植民地政策に加担することになった。
 明治維新で国家神道に切り替わった後、国家と仏教が互いに利用し合う”国家仏教”体制が整えられていったのである。

(鵜飼秀徳 『仏教の大東亜戦争』)

 仏教は国家的な弾圧に正面から抵抗するのではなく、国家に媚びへつらうことで、弾圧を緩めてもらおうとした。例えば、東西本願寺は新政府に対して次のようなロビー活動を行っていたという。

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