「なぜ労働は読書から人々を疎外するのか」という話
はじめに:時間がないから本が読めないのか?
書評家、三宅香帆の新著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が話題となっている。表題から「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」と問われているが、そんなものは労働に時間を奪われ、本を読む時間がないからだ。そう答えるだけで本書の問いに答えることが出来そうに思われるかも知れない。
だが、この回答は不充分である。というのも、日本の平均年間総実労働時間は減少傾向にあるにも拘らず、読書量は年々低下しているからだ(詳しくは『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を参照されたい)。
もし、時間が読書量と関係があるのであれば、労働時間が改善されることで読書量は増えそうなものである。けれど、現実はそうはなっていない。
となれば、労働時間では「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」の問いには答えられないのだ。それに、現代人は読書が出来ないほど本当に時間がないのだろうか。その割には現代人は、読書はしなくてもスマホを長時間、触っているのではないだろうか。
問題は、「時間がないから読書ができない」のではない。「読書は出来ないが、スマホを触る時間はある」となってしまうのはなぜなのか、ということこそ本当の問題なのだ。
本稿では、この読書離れの問題について、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』と、哲学者ビョンチョル・ハンの思想を手がかりに探っていこうと思う。
第Ⅰ章:『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という問題
「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という問題について考えていくわけだが、遠回りな議論はやめよう。端的に、この問いについての三宅の回答を引用しよう。
読書は「偶然性に満ちたノイズありきの趣味」であり、だからこそ読書ができないのだという。どういうことか順を追って説明していこう。
読書をしていると、自分が欲している情報以外の情報を偶然的に見つけることがある。本来、自分がほしいと思っていない情報は、邪魔なノイズでしかない。だから、読書とは「偶然性に満ちたノイズありきの趣味」になるわけだが、私たちはそうした「偶然性に満ちたノイズありきの趣味」を楽しめなくなってしまっている。
では、どうして楽しめないのだろうか。 その理由を三宅は、バブル経済の崩壊と新自由主義の台頭という側面から説明している。 バブルが崩壊し、一億総中流という集団意識が解体されてゆく中で、労働者の意識は次のように変容していったという。
経済の波は自分たちではコントロールができるものではないという諦めにも近い想念が90年代以降の日本を支配するようになったという。波というようなアンコントローラブルなものについて考えるよりも、コントローラブルな自分のことだけを考えようという意識転換が起きたのが90年代というわけだ。
この意識転換は、自分のコントロールのできない情報を含む読書を避けるようになった理由も説明できる。 自分にとってコントローラブルで有用な情報を提供してくれるインターネットに対し、読書はアンコントローラブルなノイズが多すぎるのだ。
仕事後に時間があっても、本ではなくインターネットを見てしまうのはノイズ性に問題があるからだというのが本書の結論になる。
だが、ノイズという自分のコントロール下に置けないものを排除することは、一体何を意味するのだろうか。それは端的に言えば、他者の排除であると言って良いかも知れない。
他者はアンコントローラブルな存在(=ノイズ)である。相手は自分の思うようには動かないし、相手の全てを把握はできない。他者とはノイズなのだ。
でも、だからとってノイズを簡単に排除してしまうのは恐ろしく感じはしないだろうか。不愉快なノイズの排除は、不愉快な他者の排除につながる。
大事なのは他者性=ノイズを受け入れることではないだろうか。三宅は次のように述べている。
読書とは、他者(=ノイズ)にふれること、自分からは遠く離れた存在へ思いを馳せることである。
だが、どうすれば他者を受け入れ、「働きながら本を読む」社会を作ることが出来るのだろうか。次章では、ビョンチョル・ハンの『疲労社会』を参照しながら考えていこう。
第Ⅱ章:『疲労社会』と読書
三宅は「働きながら本を読む」社会を作るヒントとして、ビョンチョル・ハンの『疲労社会』を参照している。
三宅、ハンが指摘するように19〜20世紀の近代社会は規律が社会を支配した時代である。規律による支配の萌芽は17世紀にまで遡れる。まずは哲学者ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』を参照しておこう。
近代とは、まず規律社会であったと言える。だが、現代は、外界から規律を与えられる規律社会ではなく、主体的に出来ることの証明をし続ける能力社会になっていったのだとハンは指摘する。
近代社会は、外部から規律を課せられる社会であった。だが、現代は違う。現代社会には、そのような外部生は存在しない。現代は、「自分にはそれが出来るのか?」と、行動原理が内面化された社会である。
無限に続く「できること(能力)」の証明は疲れるのだ。では、疲れた先に人々はどうなってしまうのだろうか。
できること、能力を無限に証明し続けさせられるその自己搾取の結果として、人は鬱病や燃え尽き症候群になるというのだ。
では、この自己搾取をどのようにして止めてゆけばよいのだろうか。三宅は全身全霊で頑張ることを肯定しない、つまり否定する社会にすることを提案している。どういうことだろうか。
この三宅の提案は、ジャーナリストのジョナサン・マレシックの燃え尽き症候群が生じるのは、燃え尽きるほど頑張れることを肯定する社会的な風潮や人々の思い込みによって起きているという分析を嚆矢としている。なので、一度マレシックの議論を見ておこう。
バーンアウトはかっこいい。この思い込みを変えていく必要がある。三宅は、そうしたことから全身全霊で労働を務めることを美徳とするのではなく、半身で働く社会を提案しているのだ。
三宅がただ労働時間を改善するだけでは、読書をするゆとりは生まれないと指摘してきた理由はここにある。どれだけ労働時間を改善したとしても、全身全霊でできることを証明し続ける意識が改善されなければ、「他者を知る文脈」読書など出来はしないからだ。
だが、現代社会において「他者を知る文脈を増やす」という問題をどのように捉えれば良いのだろうか。三宅はハンの『疲労社会』についてしか参照していなかったが、私はハンの『透明社会』『情報支配社会』も参照し、「他者を知る文脈を増やす」読書について考えていこうと思う。
第Ⅲ章:『透明社会』と読書
本章では、ハンの『透明社会』を中心に三宅の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の問題意識を読み直していこうと思う。
改めて言うまでもないだろうが、読書はノイズが多く含まれる趣味であったのに対し、インターネットはノイズが存在しない(あるいは少ない)趣味である。
ノイズが少ないということは、自分が見たい情報だけを瞬時に見ることが出来るということである。つまり、ノイズが少ないほうが見通しが良く、透明性があるというわけだ。ハンは「透明性」について興味深い指摘を行っている。
あらゆる障害(ノイズ)が取り除かれ、すべてが透けて見えるという意味で「透明社会」というのは理解しやすいと思う。だが、「透明社会はまず肯定社会として姿を現す」とは一体、どういうことなのだろうか。
ハンの言う「肯定社会」とはどのような社会なのだろうか。それを理解するためにハンの透明社会という時代診断をもう少し読んでみよう。ハンは透明社会の暴力性を次のように指摘している。
「透明社会は同じものの地獄である」。だとするならば、その社会では他者と自分との境界も曖昧になる。それは「私は他者とは絶対的に違うところがある」という否定性の欠如を意味するのだとハンは指摘する。
つまり、透明性はすべてが同じ、他者との違い(=否定性)を認めない肯定しかない社会になるというわけだ。ハンは次のように述べている。
肯定社会は、他者の存在(否定性)を否定するという二重否定により、肯定社会という形で再現前する。
これは三宅が指摘していたノイズの否定の議論を思い出せばすぐに理解できることだろう。他者の文脈を知る読書ではなく、インターネットを求めてしまうのは、インターネットはノイズ(否定性)がなく、肯定性に満ちあふれているからなのだ。
インターネットという、透明性のある空間では、情報が過剰に可視化されている。だが、その結果として、見えないものや自分とは異なる他者への想像力も失い始めてはいないだろうか。
現代は他人のプライベートが見えすぎる時代である。歴史学者の与那覇潤は、そのような社会を「過剰可視化社会」と呼び、次のように批判している。
書物というような一見しただけでは内容が理解できないものよりも、瞬時に見てわかる動画(YouTubeやTikTokなど)や画像媒体(Instagramなど)などのほうが好まれやすいのは、「過剰可視化社会」の影響だと言えるかも知れない。
過剰可視化社会、透明社会は、自分とは異なる他者性を排除し続ける社会でもある。
だとするならば、肯定社会、透明社会と読書の関係について我々はどのように向き合っていけばよいのだろうか。そのヒントを得るために、次章では『情報支配社会』という視点から読書を考えていこうと思う。
終章:『情報支配社会』と読書
三宅は、読書から得られるものは「知識(ノイズ+知りたいこと)」であり、インターネットから得られるものは「情報(知りたいこと)」であると分類している。
情報と知識とは異なる。この前提をもとに本章では議論を進めていきたい。現代は、情報偏重の社会である。これはハンの言葉を借りれば、「情報支配社会」とも言えるだろう。
「透明性と情報は同義である」。なぜなら、ノイズを排除し、透明性を限りなく高めたものこそ情報なのだから。
ハンによれば、現代の民主主義(デモクラシー)は、他者とのコミュニケーションを必要としない、情報支配制(インフォクラシー)に堕落しているという。
また、ハンは他者の文脈を知る読書が「民主主義に不可欠な討議的公共性」を支えてきたのだと、哲学者ユルゲン・ハーバーマスの議論を援用しながら指摘している点にも注目しておきたい。
だが、ハンによれば、電子マスメディアの登場がこうした書物文化が持っていた民主的で「合理的な言説」を破壊していったという。
ここでのハンの議論は、三宅の読書=知識離れとインターネット依存=情報偏重の議論と重なる。
書物が読まれていないということは民主主義の危機でもある。ノイズを聴くことを拒み、ノイズを排除する情報支配制は、民主主義の危機であり、聴くことの危機でもあるのだ。
新自由主義の台頭により読書が難しくなるなかで現れた電子マスメディアは、人々の討議をさらに難しくし、民主主義そのものを情報支配制へと堕落させているのだ。
全身社会は民主主義を堕落させ、人々を燃え尽き症候群、鬱病へと追いやる。
ならば、改めて機能不全に陥りつつある民主主義を回復させるために読書ができる半身社会を再考してゆかねばならないのではないだろうか。最後に三宅の言葉で本稿を閉めようと思う。
※記事へコメントされる方は必ずプロフィールを読んで、プロフに書いてあるルールを守れる方だけにしてください。
-------------------------------------------------------------------------------
参考文献
*三宅 香帆(著) 『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 集英社 2024年
*与那覇 潤(著) 『過剰可視化社会 「見えすぎる」時代をどう生きるか』 株式会社PHP研究所 2022年
*ビョンチョル・ハン(著) 『透明社会』 花伝社 2021年
*ビョンチョル・ハン(著) 『疲労社会』 花伝社 2021年
*ビョンチョル・ハン(著) 『情報支配社会』 花伝社 2022年
*ジョナサン・マレシック(著) 『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』 青土社 2023年
*ミシェル・フーコー(著) 『監獄の誕生 監視と処罰』 新潮社 2020年
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?