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適当に考える「読む」について

※読んでない人はスキもコメントもいらないです。そういう人に対して批判的に書いている記事ですから。


 文章が読めない人というのは本当に厄介な存在です。文章を読めない人は、書いてあることを書いていないことにしたり、書いていないことを書いてあることにしたりと、文章を通しての会話が全く成立しません。もはや、文章を通しての会話は成立しないのではないか、と半分冗談交じりに思えてしまうほど酷い状況です。今回は、そんな文章が読めない人と「読む」について適当に考えてみましょう。


文章が読めないサル

 以前、「文章を読めない人が多い」ということを記事に書きました。その記事で書いたことは有料なのであまり詳しくは書きませんが、インターネットユーザーの大半は文章を読めていません。(根拠は以前書いた記事にあります)。


 文章を読めないというのは、字の通り、本当に文章を読んでいないということです。長い文章を読むことができない人は想像以上にいます。彼ら文章を読んでいない人間の問題について詳しく知りたい方は以前書いた記事を読んでみてください。(2021年1月31日までは記事を無料にしています。)


 私は、文章を読めない人に驚かされたことがあります。以前、私は「PCR検査抑制派は卑怯者ではない」というような記事を書いたことがあります。その記事には、PCR検査抑制派の意見とPCR検査拡大派の誤解について説明していました。

 
 そして、その記事を読んだはずのある人が「PCR検査抑制派は卑怯者ではない」という記事にスキを押していたのですが、その人がその後に書いた記事には「PCR検査抑制派は政権擁護をしている」というようなことが書かれていました。その記事を読んだ時、私は驚きました。何故なら、「PCR検査抑制派は卑怯者ではない」という記事に「検査抑制派は政権を擁護しているわけではない」とはっきり書いていたからです。本来、記事を読んでいれば理解できることです。しかも、その人は読んでスキを押しているはずなのに、全く理解していなかったのです。この時、私は「ああ、この人は文章を読んでいないんだな」と落胆しました。おそらく、文章を読んでいない人は他にもいるとは思います。私は、人を落胆させないためにも、ちゃんと記事を読もうと思います。(※明らかに、私の記事を読んでない人、例えばスキの連続押しや有料記事を購入していないのにスキを押している人などの記事は絶対読みませんが。)


 基本的に、よく読んでいないこと、理解していないことに口出しはするべきではありません。知識もないのに、何かを論じるのは知性への冒涜です。 


 例えば、私は「刺繍」の興味がないですし、刺繍の本を読んだりはしていません。だから、刺繍について論じる知性が私にはない。それにもかかわらず、刺繍についてわかった気になって「刺繍はこうするべきである」とか私が間違ったことを論じていたら、刺繍に詳しい人からしたらたまったもんじゃないでしょう。だから、私は、刺繍の本は読んで学ぶまでは刺繍については論じることが出来ません。

 

 読めないことと、読まずに分かった気になることの違いについてこのようなツイートがありました。



 一定数、何かを読めない人がいるのは仕方がありません。だからこそ、読む努力、知性を身に着ける努力が必要なんです。でも、その努力もせず、読んでいないのにわかった気になって、わかってないことに口出ししているのは良いこととは思えません。


 それこそ、知性への冒涜であり、知性の放棄だと思います。有名な言葉に「無知の知」というものがありますが、「わかってないことを分かった気になっている」というのは、まさに「無知の知」がない人であり、わかっていないことに気づいていないからこそ「学ぼう」という気にもなれていないので、知性の放棄だと思います。



読解力のない人

 文章を読めない人にはもう一種類あります。文章を読み解けない、つまり読解力がない人達です。このタイプの人間も非常に多いです。


 彼らは文章は読んでいますが、文章に書かれていることを読み解く能力がありません。インターネット上では、時々、全く書いていないことを読む人がいます。書いてあることが理解できないから、勝手に妄想を混ぜながら読んでいるのだと思います。もっと言い換えると、頭が悪いから情報処理能力が低いのだと思います。


 ただ、これは(私も含めて)書き手側にも問題がある場合もあるので注意しなくてはいけません。書き手の文章が読みにくい文章になっていることで、読み手側が読み解けなくなっている場合は、書き手側にも責任があります。なので、誤読された場合は、書き方の表現に問題がなかったか、書き手側も文章を確認したほうが良いでしょうし、もし読みにくい書き方になっているのでしたら文章を直したほうが良いでしょう。読み手だけに責任を押し付けるのではなく書き手(私も含めて)として、読みやすい文章か意識しなくてはいけないと思います。


 しかし、経験則にはなってしまいますが、私が確認したケースだと、文章を確認しても、「そんなミスリードしないだろ」と思うような誤読をしている人が多いようにも感じます。すべての誤読が読み手の責任とまでは言いませんが、やはり、読解力がない人も多いのではないでしょうか。


 彼ら文章が読めない、読み解けない人たちは非常に厄介な存在です。何が厄介なのか考えてみましょう。



ストローマン論法

 文章が読めない(読まない)、読み取れない人は、自分の思い込みだけで話してくる人が多いです。そういう人間は、人の意見を読み取れないので、意見を歪曲して話してきたりします。


 人の意見を歪曲して反論することをストローマン論法と言います。具体例がwikipediaにあったので参照します。


A「私は子どもが道路で遊ぶのは危険だと思う。」

B「そうは思わない。なぜなら子どもが屋外で遊ぶのは良いことだからだ。A氏は子どもを一日中家に閉じ込めておけというが、果たしてそれは正しい子育てなのだろうか。」(Wikipedia 参照)

 


 この場合、Aは「道路で」としか言っていないにもかかわらず、Bは「屋外で」と意見を歪曲して反論しています。「道路で」が前提にもかかわらずBは「屋外で」と前提を歪曲して反論しているという非常に卑怯な反論ですが、このストローマン論法を故意にやっている人もいれば、文章を読んでいない、読み解けない人がやっている場合もあります。


 例えば、「2進数の場合1+1はいくらになるか答えよ」という前提に対して、1+1=10と回答した人に、「2進数の場合」という前提を読んでいない、読み解けていない人が「1+1=2だぞ。お前は間違っている」とか悪意もなく本気で言ってくる連中がいます。そういう人に対して「『2進数の場合は』という前提がありますよ」と言っても、「そんなものなかった(読んでないだけ、読み解けていないだけ)」と逆ギレしてくることがあります。


 文章を読まない、読み解けない人のストローマン論法に悩まされている芸能人の記事があったので紹介します。


「有名無名問わず、誰かがメディアでした話から別の誰かが一言だけ抜き取って、文脈から切り離してネットで持ち出して、そこから少数派を除いた多くの人がソースの文脈を参照しようとしないまま自己投影に基づいた批判や擁護(つまり妄想)のたたき台にして論争が繰り広げられる現象にまだ名前ないのかな」(https://news.yahoo.co.jp/articles/899f73a22ad2a42692ba140a65999e5127c964a4 より)

 


 これは歌手の宇多田ヒカルさんがツイートした内容ですが、ツイートには「ソースの文脈を参照しようとしないまま自己投影に基づいた批判」とありますね。まさに、一部しか読まず、あるいは全部読まず、歪曲して反論するストローマン論者の卑怯な例だと思います。


 ストローマン論法を故意にやっている人は論外ですが、読んでいない、読み解けない人もストローマン論法を悪意もなくやってくるので厄介です。


 私自身、このストローマン論法を使ってくる人に悩まされたことがあります。その時、私は「感染症対策だけでなく経済対策もしないと自殺者が増える。今go to トラベルをするのには反対だが、徐々に経済は動かさないといけない」と言っていたのに対し、「go to トラベルをやめたら自殺者が増える?感染者の問題はどうするんだ」と反論されたことがあります。その時、私は「go to トラベルをするのには反対」と言っているのにこんな頭の悪い反論があったのです。正直、驚きました。書いてあることすら読めない、読み解けない人がいるのかと。


 文章が読めない人の問題として、以前、デマを流すことが問題だと記事に書いたことがありますが、文章が読めない人の問題はストローマン論法を使ってくるということにもあると思います。あまりストローマン論法という言葉は一般的に使われていませんが、いわゆる「クソリプ」もストローマン論法の一つだと思います。



自己矛盾に気づかない人

 文章を読めない、読み解けない人は、それ故に言っていることが自己矛盾していることがあります。


 たとえば以前、「貨幣に限界効用逓減の法則があるというのは間違いだ」と記事を書いたのに対して、「貨幣の効用が逓減する場合もしない場合もあるから『貨幣に限界効用逓減の法則があるというのは間違い』とまでは言い切れない」というような指摘をされたことがあります。(現在コメントは、内容が悪質であったのと、他の読者様のミスリードを誘う内容であったことと、その人が特定されないために削除しています。)


 よく文章を読んでいないから、言葉の意味を理解していないのかもしれませんが、私が言った「貨幣に限界効用逓減の法則があるというのは間違いだ」というのが正しい理由を分かりやすく説明しましょう。


 例えば、世界には万有引力の法則というものがあります。ニュートンが見つけた有名な法則ですね。逸話ではリンゴが木から落ちるのを見てこの法則にニュートンが気づいたと言われています。このリンゴが落ちるのは地球に重力があるからです。これは木ではなくて手でリンゴを持っていて、手を離した場合でもリンゴは地面に落ちます。100回やっても200回やってもリンゴは手から落ち続けます。でも、もしリンゴから100回手を放して、50回リンゴは地面に落ちて、残り50回はリンゴが空を飛んだ場合、それは「リンゴに万有引力の法則がある」と言えるのでしょうか。答えは「法則があるとは言えない」です。当たり前です。「法則」というのは、「ある条件下では必ずそうなる」という意味です。リンゴから手を100回放した場合、100回とも地面にリンゴが落ちない限り、「リンゴに万有引力の法則がある」とは言えなくなります。


 話を貨幣における限界効用逓減の法則に戻しますが、「貨幣の効用が逓減する場合もしない場合もある」というのは「リンゴが落ちる場合もあるし落ちない場合もある」というのと同じことです。「リンゴが落ちる場合もあるし落ちない場合もある」というときは、そこに法則はありません。「貨幣の効用が逓減する場合もしない場合もある」というときも、そこに法則はありません。法則がないのに「法則がある」というのは間違いです。ですから「貨幣に限界効用逓減の法則があるというのは間違いだ」と言っているのです。


 「貨幣に限界効用逓減の法則が当てはまる」というのが間違いでないのであれば、貨幣が増えるという条件下では必ず効用が逓減しなくてはいけません。「法則」というのは、そういう意味です。「貨幣の効用が逓減する場合もしない場合もあるから『貨幣に限界効用逓減の法則があるというのは間違い』とまでは言い切れない」というのは、「法則」という言葉の意味を理解していないですし、もはや日本語としておかしいです。


 その「法則」の意味を間違えて使っている人は、ほかにも、日本語としておかしな表現やストローマン論法や無根拠な思い込みがあったのですが、あまり長々と書くのも話が逸れますし、無粋なのでやめておくとしましょう。


 言葉の意味を理解していない人は、文章を読んでいないから理解できていないのかもしれませんが、普通は、相手が書いた文章であっても自分が書いた文章であっても、書いていることにおかしな点がないかは読んで確認します。それをしないから自己矛盾した指摘をする人がいるのではないかと個人的に思っています。


文章が読めない人の思慮の浅さ

 私は、はっきり言って本や新聞などの文章が読めない、読み解けない人は思慮が浅い人が多いと思っています。なぜなら、本や新聞などで全く知識を身に着けていないからです。そう言うと、「テレビやスマホの動画でも知識が身につくだろ」とストローマン論者が反論してきそうですね。


 確かに、本や新聞などの文章以外でも知識を身に着けることはできますし、動画は受動的に情報を仕入れることが出来るので、大半の人は動画から知識を手に入れる方が簡単に出来ると思います。


 しかし、動画だけ観て満足していても、本や新聞にしかない知識は身につきません。人類の歴史としては、動画で情報伝達をしていた時代よりも文章で情報伝達をしていた時代の方が長いです。文章は動画よりも歴史が長いぶんアーカイブも豊富です。その豊富なアーカイブの知識が抜け落ちている人の話は新味もないし、思慮も浅いことが多いと私は思っています。


 そして、テレビやスマホの一部の動画は、放送時間による制約があるため、本や新聞に書かれていることが省略されていることがありますので、本や新聞よりも情報としての質は低いと思っています。ですので、本や新聞のような文章を読めない、読み解けない人は知識量が少なく思慮が浅いことが多いと私は思っています。


 また、先述したようにスキを連続押ししたり、有料記事を購入していないのにスキを押している人など、明らかに記事を読んでいない人の記事は、私は絶対読みません。「人の記事は読まないけど、私の書いた記事は読んでくれ」というのは虫が良すぎです。それに、文章を読む癖のない人の書いた記事は、薄っぺらい内容の記事ばかりなことが多いですから読む価値を私は感じていません。(そもそも読んでない人は記事の何がスキなのか教えてほしいものです。)



読む価値の感じる記事 

※ここはそこまで重要ではないので読み飛ばしていただいて構いません。

 では、どんな記事なら読む価値を感じるのかという話になると思いますが、”私としては”本や新聞、論文などの文章を読める人が書いている記事は読む価値がある記事が多いと感じています。


 「文章を読んでるかどうかなんてわかるの?」と思われるかもしれませんが、その人の記事を読んでいれば、文体だとか語彙だとか文章の引用量だとかを見ればすぐに「あ、この人は文章を読む習慣があるのだな」「この人は本とか読まないんだろうな」と大体わかります。


 逆に文章を読まなくても書けてしまうような薄っぺらい記事は読む価値を私は感じません。大事なことなので強調しますが、”私は”価値を感じません。


 例えば、日記や趣味(趣味にもよりますが)について語るだけなら本や新聞などの文章を読まなくても簡単に書けます。「今日は朝○○した。その時こう感じた。昼は○○を食べた。美味しかった。夜はテレビの○○を観た。」とか、そのくらいの日記なら文章を読んで知識をつけてなくても簡単に書けます。他にも「趣味としてやっているテレビゲームの○○について語ります。このゲームはこういうストーリーです。ここが特に面白いです。」とか、趣味(趣味にもよりますが)についても文章を読まなくても簡単に書けてしまう。


 私は、そういう記事はつまらないと感じています。だって、当たり前です。まだ、有名人の一日の日記や趣味ならば「読みたい」という人もいるでしょう。(私は思いませんが)。でも、一般人の一日や趣味について「読みたい」なんて思う人はそんなにいないと思います。誰かもわからない一般人が「お昼に何を食べたか」とか「趣味に何をしてるか」とか、そうしたものを面白いと感じる人の方が少ないのではないでしょうか。


 じゃあ、一般人には面白い記事を書けないのか、というとそれも違うと思います。実際、一般の人の記事でも(程度の差はあれ)面白いと感じる記事はありました。(ここで言う「面白い」とは、あくまでも、私個人にとっての「面白い」ということです。)


 本や新聞などの文章を通して、客観的な根拠を示しながら書かれているもので、新しく役に立つ知識を得られるものは面白いと思います。


 本や新聞などで客観的根拠を示しながら書いてある記事は、日記や趣味について書いているものよりは、(私としては)質が良いです。何故なら、日記や趣味について書いてあるものは「~だと思った。」とか「~が好き」とか主観的な記事ですが、「私以外にもこういうことを言っている人がいる」だとか「こういうデータがある」とか客観的に根拠を示されているほうが信用できるからです。

 

 「~だと思う」というのはいくらでも言えます。「ユニコーンがいると思う」とか「明日空から飴玉が降ってくると思う」とか「明日、宇宙人が地球侵略に来ると思う」とか、いくらでも言えてしまうわけです。


 だからこそ、「~だと思う」という主観的で根拠のないものにならないために、本や新聞などの文章を読んで客観的な根拠を示すことが重要なんです。これが出来ている記事は客観的ですし、私としてはそういう記事は面白いです。


 でも、そういう面白い記事は残念ながら少ないです。知らないことを教えてくれる、そして役に立つ知識を与えてくれる記事は面白く感じます。知的好奇心を満たさないような誰でも知っているようなこと、役に立たないことを書いている記事は面白くありません。誰も知らないような、あるいは殆どの人が知らないようなことを言ったり、書いていたりするから人々は「この人の話は聞いたことがないから知りたい」となるのです。このことは思想家の内田樹さんが次のように語っています。


 道行く人に向かって大音量で「オレね、結局、世の中って、色と欲だと思うんですよ!」と叫んでみても、誰も足を止めてくれない。何の新味もないから。「こんなことを考えているのはオレだけじゃないか」と思うから人は熱くなるし、「はじめて聞く話だな」と思うから人は足を止める。                                              (内田樹 『日本習合論』)


 そういう意味では、本や新聞などに書いてあることをただ解説しているだけの記事も薄っぺらいかもしれません。


 例えば、「『悪の陳腐さ』とはこういう意味である」とか、難しい用語を解説してる系の人もいたりしますが、そうした記事も全くもって価値を感じません。何故なら、すでに難しい用語や本の解説をしてるものなんて、世の中にいくらでも溢れているからです。


 既に解説のあるものをいま改めて解説したところで何の新しい価値も生まれていません。(勿論、新書だとか解説の少ないものなら解説する意味はあると思いますが)。


 例で挙げた「悪の陳腐さ」の解説なんかネット上のサイトにも書籍にも腐るほどあります。すでに解説したものがあるのに今更解説しても何の新しい価値も生まれていません。


 「Aという本に書かれていることはこういうことです」「Bにはこういうことが書いてある」なんて今更解説しても、すでに解説しているものがあるなら何の価値もないです。すでに解説しているものがあるならそっちを読めば良いだけの事です。それどころか「難しい用語、難しい本を知ってる俺かっこいいだろ?」とかイキっているようにしか見えず、傍から見てるとみっともないです。


 「じゃあ、お前はどうなんだ?」と批判されそうなので、反論しておきますが、私はただ難しい本や用語を解説するだけの記事は絶対に書きません。私の場合は「Aという本にはこういうことが書いてある。そしてBという本にはこういうことが書いてある。このことからCという考えが生まれる。」という風にCという新しい価値を生み出すように記事を書いています。このCというような新しい価値は解説にはないものです。これがないものは全く得るものがないですし、知的な水準からもつまらないと思っています。


 ※もちろん、noteの使い方は人それぞれなので「私が面白いと感じるように記事を書け」と強要するつもりはありません。それに、ここで言っている「面白い」とか「価値がある」とは、”私にとっては”というだけのことですので、この価値観も押し付けるつもりはありません。


 


雑感

 雑感の前にまず、読者様にお詫びしておかなければいけないことがあります。今回の記事は「読むことの重要性」について書いたものですが、かなり愚痴っぽい記事になってしまいました。読んでいて不愉快になられた方にはお詫び申し上げます。


 ただ、この記事の執筆期間中にまさにストローマン論者に出くわし、正直私自身イライラしていたところだったので、この記事を出すタイミングとしてはバッチリだったと思います。いるんですよね、よく内容を読まずにマウンティングが目的で批判してくる人が。「せめて内容をしっかり読んでから批判してくれ」と思うのですが、まあ無理ですよね。「内容を読まずに批判する暇があるなら、自分で本や新聞のような文章を読んで、客観的な根拠を示しながら私の記事に対する批判記事を書いてみろよ」とも思うのですが、そもそも文章を読めない、読み解けない人なのでそんな能力はありませんし、それが出来ないからその人の記事は全然読まれていないのだと思います。


 本や新聞のような文章を読んで根拠を示しながら書くというのは、そんなに簡単ではありません。でも、その労力を割くことによって書いている文章に客観性を持たせることが出来ます。「私以外にもこの本の著者もこう言っている」と示すことは重要なことなんです。私が文章が読めない、読み解けない人の文章(あるいは話)が嫌いなのは、主観的な文章(話)が多いからです。主観的な文章(話)全てが悪いとまでは言いませんが、何かを評価したり、批判するならそれなりの客観的根拠は示すべきです。


 さて、誤解されても困るので補足しますが、私は記事への批判は全然認めています。いろいろな意見があってもいいですし、私も至らないところはあるので記事への批判が適正なものなら真摯に受け止め反省しようと考えています。


 ですが、重要なので強調しますが、認めている批判は内容に沿った適正な批判に限ってだけです。内容に沿った批判ならば、建設的な話し合いができますが、ストローマン論者とは話し合いができません。彼らはマウンティングが目的で批判してくるのですから、議論なんか目的にしていませんし、話の内容や前提なんか気にしていません。それに話の内容を歪曲して反論すればストローマン論者が有利になるのは当たり前ですし、マウンティングが目的で批判してくる連中にとっては都合が良いのです。そういう卑怯な連中はTwitterやnoteなどのインターネット上だけでなく、現実にも存在します。


 「そんな卑怯な連中は無視すれば良いじゃないか」と思われるかもしれませんが、そうもいきません。無視していれば、歪曲された言葉(デマ)が広められるので、嫌でも歪曲された点を指摘しなければいけません。正直、ストローマン論者は鬱陶しい存在ですが、それでも歪曲された点の指摘は必要です。


 さて、8割以上愚痴みたいな記事になってしまいましたが、この記事で一番提言したかったことは「読むことの重要性」についてです。ちゃんと文章を読まない、読み解けないからデマを拡散したり、主観的になっていたり、悪意もなくストローマン論法を使ったり、自己矛盾したこと、言葉の意味を理解していない人が出てくるのだと思います。こんなことを言っても、そもそも文章を読めない、読み解けない人には、この記事すら理解できないので無駄かもしれませんね。そもそも、ここまで読み切った人はこの記事に書いてあることが当てはまらない人だと思います。実際、この記事の文字数は約10000万字ですから。ここまでちゃんと読んでいただいた方には、お礼申し上げます。この記事を通して、文章を読むことの大切さを気づいてくださる方が少しでも増えたのであれば、私としては幸いです。



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参照

・内田樹 著 『日本習合論』 ミシマ社 2020年9月20日

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