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「日常と公共性の架橋」という話

まえがき:常識の身体性

 近頃、意味のわからない日本語を結構耳にするようになったように思います。「アライアンスを組んで○○しよう」だとか「あなたの意見にアグリー」だとか、正直何を言っているのかよくわからないカタカナ用語を多く耳にします。

 もちろん、大体こういうことを言いたいんだろうなと予想をしながら聞くことはできますが、それでもやはり「アライアンス」だとか「アグリー」だとか言われても、いち日本人の身体感覚としてはいまいちピンときません。普通に「協力して」とか「賛成している」とか日本人の身体感覚に裏打ちされた言葉を使ったほうが話が通じるのでは…、と私には思えます。

 今ここで私が話したことと関係のあることで、文筆家の平川克美の話に興味深い指摘があるので紹介したいです。

先日、あるネット通信会社が人材募集をしていたのを読んだ。そうしたら「ベストプラクティスを実践することでグローバルなオポチュニティーを獲得できる人材を求む」といったようなことが書いてあった。それから、ダイバーシティがどうたらこうたらといったことも書いてあった。
 つまり、何が言いたいのかわかんない。(中略)
 つまり、その会社のなかは、「日本語の平場の常識」が通じない雰囲気ができあがってるんじゃないのかな、と想像してしまったわけだ。(中略)
 僕の言いたい「平場の常識」というのは、「伝わる言葉」ということなんだ。(中略)
 もちろん一方で、身体感覚に裏付けられた言葉だけでは、思想は語ることができない。抽象度の高い言葉を使っていかないと思想は形成できない。そこで、抽象度の高い言葉を、生活実感のある言葉で裏打ちしていく作業が必要になる。

(内田樹/平川克美 『沈黙する知性』)

 平川が例に出したこの会社には申し訳ないのですが、この会社には「日本語の平場の常識」が足りていないように思います。「ベストプラクティス」だとか「グローバルなオポチュニティー」とか言われてもやっぱり何を言っているのかピンときません。常識的に考えて、あまり使われないこのような外来言語を使われても日本人の身体感覚としては何を言っているのか理解しづらいのです。

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