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サドルの上からBonjour

はじめに

 フランスには、PBP(パリ•ブレスト•パリ)という歴史的な自転車の長距離イベントがあります。パリ近郊のランブイエを出発して、大西洋に面したブレストまでの往復1200キロを制限時間内に走破するという、4年に1度のサバイバルな大会です。次回は今年8月です。

 私は前回の2019年、制限時間90時間(3日と18時間)の枠に初めて参加しましたが、コース上で交通事故に遭い、完走が叶いませんでした。その経験を「サドルの上からBonjour」(愛称•サドボン)のタイトルでエッセイとしてつづり、同年10月~2020年2月、フェイスブックに連載しました。このnoteの原稿は、今夏、再びPBPに挑戦する記念として、当時の連載と番外編をまとめたものです。

 個人の一趣味であり、誰と競うわけでもない、自らの極限との闘いの記録にすぎませんが、一人でも多くの方に関心を寄せていただくことで、日本の自転車文化のすそ野が広がることを期待しています。

2023年のコース。2019年のコースとは若干異なりますが、パリ近郊のランブイエを発着し、ブレストまでを往復する点は変わりません。私と相方は90時間(3日と18時間)以内での完走を目指します。

PBPとは


 PBPは1891年に最初に開催され、今も続く世界最古の自転車イベントで、ブルべの最高峰と言われています。
 ブルべ(Brevet)とは、「認定」を意味するフランス語で、制限時間内に完走することで認定を得る、自転車での長距離ライドイベントのことです。順位やゴールタイムを競うものではなく、決められた公道を参加者自らの力と責任で、昼夜問わず時間内に走ります。走行距離は200キロから1000キロ以上まであります。
 世界各国にブルべを主催する組織があり、一定の参加条件(開催年に200、300、400、600キロをそれぞれ完走する)を満たせばPBPに出場できます。

①大地の旅

 地球の輪郭をなぞる。そんな感覚でずっとペダルを回していた。PBPのコースは、大半が長いアップダウンの田舎道で、丘の上に街がある。大地はただただ果てしなく、空が広い。
 視界に飛び込んでくるのは、草原→牛(時々馬)→トウモロコシ畑→森→古い街並み→草原→牛→トウモロコシ畑…(笑) 延々とこのパターンが続き、進んでいるのか戻っているのか分からなくなることがしばしば。ただ、繰り返して初めてわかる規則性は、リアルRPGのようでまた面白い。
 牛はビロードのような艶のあるベージュ系が多く、驚いたことに顔立ちもみな柔和で美しかった。フランスの乳製品が美味しい最大の理由に違いない。コンビニひとつない街には、まるで大地から生えてきたように自然と調和する石造りの家並み。中心部にランドマークの教会がそびえ、家の窓や庭には手入れの行き届いた花々が揺れている。陽が昇るころ、決まってニワトリが朝を告げてくれた。発音はフランスでもやはり、コケコッコーに聞こえる。
 おそらく100年以上前からほぼ変わらない景色と日々の営み。歴史や伝統に敬意を持ち、過度な変容を望まない、どこか誇りを感じさせるおおらかな雰囲気こそ、この国の美しさだと思う。人も自転車も、自然の摂理の中に慎ましく在った。

日本で言えば北海道のような大地と気候
豊かなトウモロコシ畑
古い石造りの民家

②Allez!! Allez!!

 ALLEZ! ALLEZ! (アレ!アレ!)

 沿道の人からどれだけこの言葉を掛けられただろう。4年に1度のPBPは、世界中からドヘンタイが集結する自転車の祭典。コース上では街をあげて猛者たちを歓迎し、応援してくれる。
 「アレアレ」は日本語で言う「がんばれ」「さあ、行け」みたいな掛け声だ。子どもからお年寄りまで、見知らぬ外国人に手を叩いている。
 中には、牧草に自転車をあしらったオブジェをこしらえたり、国旗を飾ったりしてムードを高めている地域も。その手作りの国旗の中に日の丸を見つけた時、何とも言えない気持ちになった。

ここで日本の国旗が見られるとは感無量

 道端には時折、住民が善意でジュースや菓子をふるまってくれる「私設エイド」があった。時間を節約するため、チェックポイント以外は極力立ち止まらないようにしていたが、いかんせん魅力的すぎた。ある農家のファミリーが提供していたのは、アプリコットジャムのクレープ。聞けば、ママンの手作りだという。

クレープを振舞ってくれた一家
アプリコットジャムはママンの手作り

 クレープの表面いっぱいにスプーンでジャムをのばしていたら、小さな女の子が可笑しそうにこちらを向いている。クレープを四つ折りにすると、端からジャムがあふれ、それをすかさずペロリとなめた私を見て、声を上げて笑った。私もつられて笑ったが、何か食べ方を間違えたのだろうか。欲張りな日本人だと思われただろうか(笑)
 疲労の積もった身体に、アプリコットの甘酸っぱさが優しくしみ渡った。

③睡魔と幻覚

 PBPでは、サドルの上で4回夜を迎えた。帳が下りると漆黒の闇である。昼間ののどかな表情とはうって変わり、森は真顔になった。
 月明かりが差すと、こんもりと茂った葉がまるで影絵みたいに、夜空のスクリーンいっぱいに広がる。それは自転車と同じ速さで、走馬灯のように左右に流れていく。
 時折、猛烈な眠気に襲われた。 夜間走行は視界が狭まり、あらゆる情報が遮断される。退屈との闘いだ。意識が朦朧とする中、いくつも幻覚を見た。森の木々が、なぜか巨大な奥田瑛二の顔に見えて迫ってくる。
 あまりに暗いせいか、出口のないトンネルに入り込んだような閉塞感に怖くなり、何度も立ち止まった。隣で相方が走っているような気がして、誰もいないのに10分ぐらい一人で会話していたこともあった。眠りこけて落車した参加者を、何人も見た。私も蛇行していたのだろう。誰かに「Are you OK?」と声を掛けられ、ハッと正気に戻った。

街灯も自販機もない闇を、自転車のライトだけで夜通し走る

 街中のベンチや教会で仮眠を取った。特に教会は入り口の近くに階段や風よけになる踊り場のようなスペースがあり、身を潜めるには絶好の場所だった。未明には気温が10度を下回ったが、携帯していた寝袋が心地良すぎて、気付いたら起きるべき時刻を過ぎていたことも。どこでも寝られるという記者の特技を、妙な場面で発揮してしまう。
 しかし、なぜ奥田瑛二だったのだろう。幻覚の彼は、いつまでも私の脳内で満面の笑みを浮かべていた。

④Nonと言えなくて

 すでにお気づきだと思うが、私は身に降りかかる出来事を、基本的に拒否せず面白がるタイプだ。そして、物事への集中力はそこそこあるが、短い。新聞記者を志した大きな理由は、日々を濃厚に生きられることと、毎日原稿の締め切りがあり、仕事が1日単位で完結することだった。自分のリズムに合うので飽きないと思ったのだ。
 そんな人間だから、初めての海外ブルベともなれば、想定外の事態に巻き込まれ放題である。
 走行中、草に隠れた溝にハマったときのこと。自転車を引き上げてチェーン落ちを直そうとしていたら、後方から颯爽とフランス人青年が現れた。聞けば、父親とともに初めてPBPに参加したという。その名もロマン。フランスのノーベル賞作家ロマン・ロランと同じだ。
 ロマンは慣れた手つきでチェーンを掛けてくれたが、ハンドルに取り付けたDHバーも曲がっており、持っていた工具では元に戻せなかった。時間を取らせては申し訳ないと思い、次のチェックポイント(※ 現地ではコントロールと呼ぶ)でボランティアのメカニックにお願いするから大丈夫だと伝えると、その必要はないと言い張る。なんと、彼のママンがキャンピングカーで次のコントロールに応援に来ており、その車に積んでいる工具で直すことができるらしい。つまり、一緒に行こうというわけだ。

ホスピタリティーあふれるロマン

 出発から500㌔余り。わたしには一刻の猶予もなかった。すでに時間内完走が危ぶまれるペースだった。自分より速い人と一緒なら、少しでも先へ行ける。藁をもつかむ思いで、彼について走ることにした。速すぎず遅すぎない、私の走力に合わせた絶妙な引き。若いけれどかなりの経験値があるのだろう。彼は英語がほとんど話せなかったが、自転車が共通言語になった。
 コントロールに着くなり「お母さま、初めまして」的な、妙なシチュエーション。キャンピングカーの脇にはテーブルがセッティングされていて、何やら料理が並んでいる。彼にDHバーを直してもらっていると、父親が自転車で到着。さらに父親の友人だというデンマーク人もやってきた。

ママンのケークサレが本当に美味しくて、思わずレシピを聞いた

 あれよあれよという間に、ブルベの途中とは思えないランチが始まり、ジャポネーズの私は皆に紹介された。「せっかく日本から来たのだから、一緒に食べてって」とママン。一家の雰囲気に完全に呑まれる。私は私のブルベを走らねばならない。Nonという勇気を持て。でも、言えなかった。いや、言わなかった。
 ロマンの父親は、私が広島から来たと言うと「悲しい歴史のあった街だ」と神妙な面持ちで深く何度もうなずいた。デンマーク人は最後まで私を中国人だと勘違いしていたが、美味しいチーズを薦めてくれた。
 パンにハムとチーズ、そしてバターをひとかけら挟むのが彼らの流儀で、シンプルなのに抜群に美味しい。ママン特製のケークサレ(おかずケーキ)は、オリーブとベーコンの塩気が程よく効いて、身体が生き返るようだった。もう行かなくちゃと思いながら、時間が過ぎてゆく。ロマンが、折り返し地点のブレストまで一緒に行こうと誘ってくれたが、自分のペースを保ちたかったので丁重に断った。
 去り際、ロマンは自分で焼いたというガトーショコラを包んで持たせてくれた。こんなにお洒落な補給食は初めてだ。ジャージの背中のポケットにしまい、大きく手を振った。もう一度、振り向きたいのを我慢して、ペダルを力強く踏み込んだ。

⑤ランデブー

 そもそも、PBPは相方が目指しており、今回私はあくまでもサポート役として共に渡仏するつもりだった。ところが、昨年から私もブルベを始め、とても幸運なことに今年の前半、PBPの参加資格が得られる走行距離(200、300、400、600㌔)をクリアしたため、恐れ多くも参加者になる決断をした。経験値が乏しいので非常にハードルが高い無謀とも言える挑戦だったが、このタイミングで切符を手にした意味は必ずあると思った。限界を知りたいという好奇心を満たすのにも十分だった。
 超ロングライドとなると、2人は走力の差はもちろん、休みたいタイミングも違う。特に相方の完走という最大の目標を前に、共に走るという選択はなかった。というより捨てた。実際、彼はエントリー時点で私より30分早いスタートだった。
 ただ、PBPのコースは基本的にスタートのランブイエからブレストまでの往路と復路が同じ道だ。だから、どこかですれ違うであろうことは予想していた。それは、ブレストの手前約40㌔のシジュンという小さな町だった。私はブレストを目指す往路で、彼はブレストから折り返した復路で、麗しのランデブーである。

実はお互い汗臭い…
目も充血…

 カフェでジュースを飲んで、趣のある教会を背後に撮影したりしながら束の間のエール交換。カフェで出会った犬と戯れ、互いに「(ゴールの)ランブイエでね」とさよならした。
 彼なら必ず制限時間内に完走できると、微塵も疑っていなかった。そうなるように心から祈っていた。だが、私はというと、これからの道のりを全力出し切っても時間内のゴールは厳しいような気がして、自信を失い始めていた。いまこの一瞬を慈しむ余裕などないはずなのだ。それでも、自分の中で静かに底力がわいていた。

⑥ターニングポイント

 折り返し地点となるブレストは、フランス西部の港湾都市だ。フランスで初めて見る海。半分の600㌔を走った達成感よりむしろ、日本では見慣れた、水のある風景に出会えた安堵感のほうが強かった。
 相方と束の間の逢瀬で充電できたはずなのに、思いのほかペダルは重かった。ブレストに着いた時にはすっかり陽が落ち、通過チェックとなるコントロールでは、食事を提供してくれるボランティアが既にしまい仕度をしていた。日本なら「蛍の光」が流れるであろう場面。お腹が空いていたのに、食べ物はもうなかった。よっぽど気落ちした情けない顔をしていたのだろう。ボランティアの高齢男性が、余ったバゲットを丸々1本くれた。そして、私の肩をたたいて、にっこりして言った。
 「あなたには、まだチャンスがある」。
 片付けの作業の邪魔にならぬよう、そそくさと屋外に出てバゲットをかじりながら、再びサドルにまたがった。長い退屈な夜が始まる。街の小綺麗なベンチで仮眠し、街灯はおろか自販機ひとつない暗い山道を踏み行く。まばらにあった他の参加者の姿もなくなり、私はひとりぼっちになった。

600キロ走ってやっと海が見えた

 遠くに車のヘッドライトらしき明かりが見える。近付くと、さっきバゲットをくれた男性が車を停めて立っていた。手を叩きながら「Allez Allez (頑張れ、頑張れ)」と叫んでいる。何があっても全力を尽くそう。ただただ、心に誓った。
 それなのに、交差点で道を間違えた。戻ろうとしてさらに間違えて、途方に暮れる。地図を見誤り、進行方向が逆になっていた。思考回路はほぼ停止。見上げれば満天の星空。星との距離に比べたら、地球上の1200㌔なんて可愛いものだ。なんとか制限時間に間に合いたい。だが、焦る気持ちは疲労に負けて、まぶたは重くなりスピードは落ちていく。
 不思議なことに、これまで生きてきた中で比較的ネガティブな場面が次々と浮かんできた。さすらって、失くして、傷ついて、悔やんで、傷つけて、棄てて。割と根性あったじゃないか。諦めたら終わり。記者になっても、その精神で日々をめくってきた。私が今走っているこの道は、さながら人生だ。
 思春期に他界した父親の口癖は、「今、自分にできることを精一杯しなさい」。車で遠出するのが好きな、ユーモアにあふれた自由人だった。もし今、生きていたら。道中、突然キャンピングカーで現れて私を激励してくれただろう、きっと。

⑦命綱

 フランス国土を使った壮大なサバイバルゲーム。私にとってのPBPは、この表現が最もふさわしい。
 折り返し地点のブレストでギリギリだったように、復路では食事や寝場所を提供してくれる通過チェックポイント(※現地ではコントロールと呼ぶ)が閉まる時間までにたどり着けない事態に陥っていた。それは同時に、制限時間内の完走が極めて厳しいことを意味する。
 コンビニと自販機は皆無で、スーパーもほぼ見当たらない。日本でいう道の駅のような公的施設もない。補給食を得ることと、スマホで地図を見ながら走るのに欠かせないモバイルバッテリーの充電が命綱だった。偶然見つけたスーパーで、持てるだけのサンドイッチや飲み物を買い込んだ。私にとって、真のブルべが始まっていた。
 だが、途中で出会ったインド人男性2人組が空腹を訴えていたので、サンドイッチを3人で分けることに。そのうち、モバイルバッテリーが果ててしまった。購入できる店や充電させてくれそうな場所もなく、スマホの充電残り10%で迎えた夜。「開いていますように」と祈りながらコントロールへと続く道を行くと、スウェーデン人女性の参加者がこちらへ向かってくる。私を見ると、 彼女は「もう閉まってる」と首を振った。
 ほぼ街路灯のない夜の闇は深く、コースを示す案内表示が全く見えない。スマホで地図を見ることができなければ、必ず道を誤る。
 よし、この人についていこう。嫌がられないよう、微妙に距離を保ちながら、彼女の後を追った。しかし、走力差は歴然としていた。初めははっきり見えていた彼女の自転車の後部ライトが、だんだんと小さくなっていくのが分かった。闇夜に取り残されるのが恐くて、気付いたら「Excuse me!」と大声で叫んでいた。彼女の耳に届いていたのか、届かなかったのか。唯一の希望だった灯りは豆粒のようになり、やがて闇に消えた。
 フジェールという街のコントロールを目指していた。幸い飽きるほどの一本道で、迷うことはなかった。途中、眠くなったので屈伸運動をしていたら、フランス人女性ドライバーが路肩に車を寄せ、声を掛けてきた。英語が通じたので現況を手短に話すと、彼女は「私の家で少し寝ていったら? その間に充電すればいい」と言う。
 日本の大手企業で短期間働いていたそうで、とても親身になってくれた。こんな深夜の奇遇。でも、私はチャレンジの最中だから好意に甘えることはできない。そう伝えると、苦笑いして「きっとゴールできる」と励ましてくれた。
 この日は、彼女の誕生日を家族で祝うため外食した帰りだったという。車内に娘らしき少女が2人居た。さようなら、と手を振り掛けたその時である。
 偶然にも、昼間から抜きつ抜かれつして顔見知りになった、ロシア人カップルの参加者が通り掛かった。路肩で話していた私たちに気付き、足を止めた。女性ドライバーは彼らが参加者だとわかるや否や、私の窮状を素早く説明し、何とか助けてあげてほしいと懇願。すると、ロシア人彼女が自分のモバイルバッテリーを私に差し出してくれた。お互いタイムアウトの覚悟はあるものの、ゴールまで気が抜けない身。さすがに「受け取れない」と断ると、「僕のバッテリーがあるから大丈夫」とロシア人の彼が言う。そして、2人は立ち去った。
 女性ドライバーは、私が最悪の事態を免れたことに、心底ほっとしたようだった。私にとっては、まるで夢を見ているような、にわかには信じがたい展開だった。誕生日の楽しい夜だったのに、こんな日本人が振り回して申し訳ない。いや、それ以上に、また1つ進む勇気をありがとう。何よりも心が充電され、一気に夜明けが待ち遠しくなっていた。

⑧jambon et fromage

 バゲット、ハム、チーズ。大好物でもあり、フランス滞在中、この3つを食べない日はなかった。どの味もシンプルで普通にクオリティーが高く、サンドイッチにすると格別なマリアージュを生んだ。「jambon et fromage (ハムとチーズ)」。サンドイッチをオーダーする時は必ずこう言った。
 旅も終盤の頃である。走力が同じなのか、インド人女性の参加者とたびたび顔を合わせた。足をさすりながら走っていたので、「大丈夫?」と声を掛けると、膝が痛むと言う。顔を歪めながら「薬を持ってる?」と聞くので、持っていた天下のバファリンを1シートあげることにした。
 「1回3錠を1日2回」と飲み方を説明すると、彼女は「really?(本当に?)」と目を丸くした。インドの薬は1日1回が普通なのかもしれないと思い、「Yes. これは日本で最もポピュラーだし、よく効く」と自信満々に勧めた。ところが、彼女は錠剤のシートをじっと見つめて再び「really?」と聞いてくる。2錠ごとに切り離せる点線があったからだろう。慌てて飲み方を確認すると、「1回2錠を1日3回」の間違いだった。さすが数学の国の人だと妙に感心する。
 賢そうな面立ちの彼女は、私よりはるかに若い雰囲気だった。乾燥した大地を長時間走ったからだろう。唇がひどく荒れていたのを気にしていた。「もうタイムアウトだけど、ゴールを目指したいの」と話していた。私と同じだ。お節介かなと思いながら、街のファーマシーに行けば、きっとリップクリームがあるよと教えてあげた。
 陽の光を浴び、何故かとても穏やかな気持ちだった。人に施しを受けっぱなしだった自分に、人を思いやる余裕があった。時間内完走を諦めたくはないが、受け入れねばならない現実があった。
 クロワッサンの焼ける香りに導かれ、街のパン屋に入ると、彼女もついてきた。彼女は甘いものが苦手なのか、宗教上の理由があるのか、「この中で甘くないパンはどれか店主に聞いてほしい」と言う。割と世話が焼ける人である。だが、これまであらゆる国籍の人から受けた恩は巡らせたい。さっきの小さな過ちを挽回したい思いもあった。その通りに店主に尋ね、彼女に伝えた。もう、次のコントロールが開いている見込みはなかったから、私はバゲットにハムとチーズをはさんでもらい、ジャージの背中のポケットにちょうど収まるサイズにカットをお願いした。

フランスはパン屋が多い
手際よくサンドイッチを作ってくれた店主

 彼女と別れ、店の前で焼き立てのクロワッサンを頬張った。道端にぽろぽろと皮をこぼすのもお構いなしに。そして、私はまた走り出した。少し先にあったファーマシーに彼女の自転車が止めてあった。リップクリームを探しているかもしれない。インドにも乾燥地帯はあるはずだが、普段はどんな景色の中を走っているのだろう。
 ポケットの中にサンドイッチが入っている幸せ。途中で取り出しては少しずつかじり、美味しさを噛みしめた。それがコース上の最後の食事になるとは、その時、夢にも思わなかった。

パワーの源はやはり食

⑨葛藤

 最後の夜が明け、陽の光が大地の輪郭をあらわにしていく。草原は霧に覆われ、頬をなでる風は湿気を含んでいた。ふと、フランス人画家、モネが描いた朝霧の絵が浮かんだ。その空気感は未知であったが、ああこれなのだと腑に落ちた。この風景を描き留めたかったモネの心境に触れた気がした。この1日が始まる刹那に美しさを感じるのに、国境も人種もない。自然を前にして、ただの人間で在ることが尊く思えた。


 制限時間は、この日の午後2時半。残されたおよそ200㌔を時間内に走り切るのは明らかに無理だった。現実を考えるたび、悔しさが波のように押し寄せ、涙が止まらなかった。せめて完走だけを目指すにしても、明るいうちのゴールは到底不可能。しかも、翌日に帰国する日程だ。DNFという言葉がある。don't finishの略で、すなわちブルベで途中リタイアすることを指す。私はどこかでDNFをしなくてはならなかった。だが、サドルから下りる決断ができないでいた。
 その大きな理由は、冗談抜きで身体と精神のコンディションにほぼ問題がなかったからだ。つまり、非常に元気だったし、楽しくて仕方なかった。すでに、自己最長記録の600㌔をはるかに越える1000㌔を目前にし、走るスピードは他の参加者に劣るにしても、気力体力を持続させる自信はあった。
 フランスに送り出してくれた友人や自転車仲間の顔が一人一人浮かんだ。「平常心で」「諦めるな」。心のこもったたくさんのエールを、何度も繰り返し頭の中で唱えていた。身体が元気なうちは走りたい。でも、暗くなる前に見切りをつけなくては。DNFの理由を、自分なりに探していた。その想像を絶する辛さは、皮肉にもPBPがいかに身に余る挑戦だったかを如実に示していた。
 相方はきっと無事にゴールするだろう。私がもっと早い段階でDNFを決意して、電車でゴールのランブイエに向かい、その歓喜の瞬間に立ち合う選択もあった。ただ、私は私のブルベを全うしたかった。もはや、意地に似た好奇心だけでペダルを踏んでいた。
 街の住民たちは変わらず優しかった。すれ違うたび、拍手で見送ってくれた。最後まで、私らしく楽しくやろう。気持ちを取り直し、走っていた私はおそらく、笑顔だったに違いない。だが、旅の終焉は突然やってきた。それは、マイエンヌという県の、交差点に差し掛かった時だった。

⑩旅の終わり

 渡仏する前、大学時代に習ったまま忘れかけていたフランス語を思い出すため、マンツーマンの短期レッスンを受けた。フランス人の男性講師にPBPに参加するのだと説明すると、たいそう喜んでくれ、交通標識の一つ一つまで丁寧に教えてくれた。彼自身も自転車を愛し、複数台を乗りこなすトライアスリートだ。
 その彼が最初に教えてくれたのが、信号がない環状交差点(ラウンドアバウト)だった。「必ず右側から入ってね」。フランスは右側通行だから当前なのだが、笑って念押しされた。

ラウンドアバウトの一例(参考写真)

 そのラウンドアバウトで、私は交通事故に遭った。ほぼ止まれる位の低速で交差点に入り、直進するつもりだった。だが、大型トラックが猛スピードで後方から現れるや否や、いきなり右に曲がってきた。日本で言う、左折巻き込みのシチュエーションだ。
 私は咄嗟にハンドルを右に切って路肩に寄ろうとした。だが、おそらくトラックの運転手の視界に私は入っていなかったと思う。スピードは緩むことなく一気に至近距離となった。「このままでは当たる」。観念すると同時に、トラックの右側面がハンドルの左側に接触した。私の身体は瞬時に自転車から外れ、地面にたたきつけられた。
 本当に一瞬の出来事だった。だが、スローモーションのように覚えている。トラックはそのまま走り去った。ナンバーを確認しようと目を凝らしたが、もう見えなかった。きっと、大したことはないはず。祈るような気持ちでよろよろと立ち上がると、左肩の鎖骨あたりが崩れるような嫌な感覚があった。自転車は見る限り無傷だったが、もう旅を続けることはできないと悟った。
 道路脇の植え込みに、自転車と散らばった荷物を寄せるのが精一杯で、私は座り込んだまま立てないでいた。左肩には重く鈍い痛みがあり、右手で支えていないと骨がバラバラになりそうだった。間もなく、通行人が2、3人やってきて、手を貸してくれた。近くに総合病院があり、救急車はすぐ来るらしいと分かったので、呼んでもらうことにした。警察に届けるべき事案だったがそうしなかったのは、目撃者も防犯カメラもない状況で加害者を割り出すのは難しいうえ、翌日帰国の日程だったからだ。フランスの警察で事情を説明するのも、もはや面倒だった。
 助けてくれた近隣住民のうち、ジャン・ピエール氏は英語が話せた。とても親切な紳士で、「病院に行っている間、自宅で自転車を預かってあげる」と連絡先をくれた。事故現場の近くに住んでおり、携帯電話の店に用事があって出掛けたところだったと聞いた記憶がある。彼を巻き込んでしまったことに心が痛んだが、有り難い申し出に甘え、彼に自転車を託すことにした。
 相方はもうゴールしている頃だった。走行中に動揺させてもいけないので、連絡すべきかどうか迷っていると、偶然電話が鳴った。時間内に完走できたと喜びの報告だった。まさに明暗。精一杯ねぎらいの言葉を掛けた後、意を決して自らの現状を伝えた。誰よりも望んだ相方の晴れのゴールに、どうして水を差してしまうことになったのだろう。情けなくて悔しくて、自分を責めながら、救急車に乗った。
 事故に遭った直後、頭に浮かんだ3つのことがある。まず最初に、私の無事の完走を心から願ってくれていた、友人や職場の先輩後輩、自転車仲間に対する申し訳ない気持ち。それから、変な言い方になるが、結果的にDNFの理由を探す辛さから解放され、強制終了となった妙な安堵感。そして最後は、また4年後を目指せるという明確な目標。
 ゴールのランブイエまで約200㌔余り。悲しくも清々しい、旅の終わりだった。サドルから無理矢理引き離されたにもかかわらず、私の心はむしろ、朝に見たあの霧のように穏やかだった。

⑪病院で

 フランスの救急車は日本の消防車のように赤色で、少し頼りないサイレンだったと記憶している。救急隊員はフランス語しか話せなかったが、鎖骨が折れているらしいと伝えるのに時間はかからなかった。救急隊員と看護師の、患者に対する的確で無駄のない動きは万国共通なのだろうか。日本とほぼ変わらない安心感があった。
 北マイエンヌ総合病院ー。日本語でそう訳せる場所に到着し、すぐにレントゲンを撮ってもらうと、思った通り左の鎖骨が折れていた。医師の説明では(当時は)、固定しておけば自然にくっつくとのことで、処置と言えば固定バンドを服の上から装着してもらったのみだった。
 急患ではあったが他の患者も多く、一つ一つの手続きを済ませるのに相当な時間が掛かった。待ち合い室で、ぼんやりと悲しい気持ちに包まれ、押し寄せる疲労に耐えていた。約1000㌔走った上に、事故の衝撃である。異国での慣れぬ出来事に緊張して頭は冴えていたが、身体はぼろぼろだった。
 女性看護師が「何か飲み物いる?」と聞いてくれた。異国の言葉で話すことが、すでに億劫だった。フランス語で「大丈夫」と答えたが、とても大丈夫には見えなかったのだろう。間もなく彼女は、ペットボトルの水を持ってきてそばに置き、私の左手に何かを握らせると、おまじないのように自分の手でぎゅっと包んでくれた。「元気出してね」。彼女の体温がそう伝えていた。
 手をそっと開くと、貝形の小さなマドレーヌだった。フランスの職場には、日本のせんべいやおかきのようにマドレーヌのお徳用パックが常備されているのかもしれない。それにしても、病院の待ち合い室で看護師からマドレーヌの施しを受けるなんて、なんとフランスらしいお洒落なシチュエーションなのだろう。ちなみにローカルな例えでいうと、広島市の安佐市民病院で看護師からもみじまんじゅうをもらうようなものである。
 フランス人小説家プルーストの「失われた時を求めて」で、主人公がマドレーヌのかけらを食べて過去を思い出す有名な場面があった。私もおそらく、マドレーヌを口にするたび事故の日を思い出すのだろう。一人きりの奮闘を癒してくれる、どこまでも優しい甘さだった。

⑫別れ

 私が初めてロードバイクを手に入れたのは2014年の4月だ。LOOKというフランスのメーカーのフレームで、敬愛を込めて「ルクヲ」と呼んでいる。会社の先輩たちがロードバイクに乗っているのを見て欲しくなり、まるで八百屋で大根を買うように自転車店に行って即決した。しかも、実車ではなくカタログのフレームに一目惚れして。(当時のLOOKは完成車を製造していなかった) 岩国市に赴任していた頃だ。
 当時は仕事やら何やらで、全く乗らない期間も長く、意識して定期的にライドを始めたのは岩国から広島に帰った2017年の夏以降。国内のブルベは、2018年4月に初めて挑んだ。今回、幸運にもフランスのPBPに参加する機会を得たが、同時にそれはルクヲの里帰りでもあった。
 私はルクヲと初めて1000㌔近い距離を共にした。人馬一体という言葉があるが、さすがに600㌔を過ぎると身体が自転車に馴染む初めての感覚があった。この身ひとつを原動力に、たった2つの輪っかでこんな遠くまで行けるのだ。自転車は近代史における最大の発明だとつくづく思う。
 それなのに、である。ルクヲは故郷で事故に遭い、私と同様、相当なダメージを受けた。さらに私が救急搬送されたため、事故現場近くを偶然通りかかった親切なフランス人男性、ジャン・ピエール氏の家で預かってもらう顛末となった。私たちは、不本意にも離ればなれになった。
 搬送先の病院で左の鎖骨を固定し、その日の夜に私は病院側が手配した車でパリ近郊のホテルに戻ることができた。翌日には帰国の途につかねばならなかった。だが、様々なすれ違いが重なった結果、ルクヲはホテル行きの車に載せることができず、ジャン・ピエール氏の家に預けられたままとなった。つまり、ルクヲの回収が帰りの飛行機に間に合わなかったのである。
 後ろ髪を引かれる思いでフランスを経った。自転車1台とはいえ、およそ1000㌔を共にした旅の相棒である。折れた鎖骨の痛みより、その存在が傍らにないという空虚さのほうが、私には耐え難かった。

⑬入院

 帰国してからは身辺が騒がしかった。とりあえず、広島市内の整形外科で詳しく診てもらったところ、鎖骨は一部粉砕しており、金属のボルトやプレートで固定する手術を勧められた。信頼していた医師の言葉に、迷わず手術を選択。傷が残ることだけが非常に辛かったが、今後も乗り続ける身体にするために覚悟を決めた。
 ただ、手術のために入院したその日。とんでもないことが分かった。相方に促されて事前に撮ったMRIの結果、骨盤の2カ所が折れていたのだ。仙骨と恥骨にひびが入った状態、いわゆる不全骨折だった。このため、入院生活は数日から2週間に延びてしまった。
 どうりでずっと痛かったはずだ。打撲だと思い、足を引きずるようにしていた。くしゃみをした時の何とも言えない鈍痛で異変を感じた。担当医師は「これでよく歩けていましたね」とあきれる始末。骨のことまで分からない。見えないのだもの。人身事故、入院、手術、リハビリ…。フランスの美しい大地の記憶から引き離され、再起をかけた初めての試練が始まった。
 病院の無機質な天井をぼんやり見ながら、自由に歩くこともままならなかった。それはそれで、思考が研ぎ澄まされる。このエッセイの仕込みも、際限のない読書も、人生のあれやこれやの整理も、この2週間で叶えた。生まれてこのかた、こんなに強制的に日常の営みから隔絶された経験があっただろうか。この時間で得たものは、計り知れない。
 入院生活は相方と母と、ごく親しい人が支えてくれた。病院で働く方々をはじめ人の助けが不可欠な生活になり、態度も身体も少し小さくなったわたしは、この時期を人生史上最も謙虚な気持ちで過ごしていた。
 まだ海の向こうにいるルクヲについては、預かってくれているジャン・ピエール氏の手を煩わせないよう、フランスでお世話になった通訳の方に自転車の引き取りと国際宅急便の手続きをお願いすることにした。いっそ、自ら渡仏し、飛行機で連れ帰るほうが安心ではあったが、動けない身となっては人に頼るほかない。
 再びルクヲに乗れる日。フランスでは当たり前だったことが、切実な目標になっていた。

病院食でカルシウム摂取

⑭おかえりルクヲ

 事故から2カ月経った10月下旬。ようやくルクヲがフランスから帰ってきた。帰国後に入院していた私は既に退院し、仕事にも復帰してリハビリ生活を続けていた。
親切な現地の人たちのお陰で、欧州ヤマト運輸のパリ支店から国際宅急便で自宅に届けられた。
 だが、ルクヲがパリ支店に持ち込まれてから日本への発送までは、思いのほか時間を要した。それは、国際宅急便の規定で、自転車をはじめ付属しているすべての物について材質や時価を書き出し、リストを作らなければならなかったからだ。
 現地に持ち主がいない状況で、その作業は困難を極めた。ルクヲには1200㌔の旅をするために必要な装備がふんだんについた状態だったからだ。車体の3カ所に取り付けたバッグには、チューブや工具、薬類、化粧品、汗まみれのジャージや靴下までもが、事故当時のまま入っていた。
 ヤマトの担当者(日本人女性)がそのバッグを現地で開け、写真に撮って私に画像とリストを送る。そして、私がリストに材質や価格を記入し、メールで返信する作業が続いた。
 加えて、「この種類の電池は日本に送れません」とか「ヘルメットについてる丸い赤いのは何ですか?」「ライトです」、「このポーチの中の薬は市販のものですか?」「いいえ、病院で処方された喘息の薬です」といった、地道なメールのやり取りを40通近く重ね、発送準備が完了したのだ。
 届いた荷物を開けて、私は驚いた。ルクヲは、事故後に預かってくれていたジャン・ピエール氏によってある程度解体され、ギアからフレームに至るまで傷が付かぬようプチプチで丁寧にくるまれていたのだ。隙間には輸送の衝撃に備え、緩衝材や段ボールが入っていた。彼がロードバイク乗りかどうかは知らないが、私の旅の相棒をこんなに大切に扱ってくれたことに感激した。ヤマトの担当者がチェックしてくれたバッグの中身も無事だった。

プチプチに丁寧にくるまれたルクヲ

 ルクヲを組み直し、車体をチェックすると、カーボン製のハンドルの左部分が折れていた。ちょうど、トラックに接触した箇所だった。もし、生身の体に当たっていたら。衝撃の大きさを思うと身震いする。もはや、自転車が私を守ってくれたとしか思えなかった。

バーテープをはがすと、ハンドルがぽっきり折れていた

 ジャン・ピエール氏には丁重にフランス語で御礼の手紙を書き、心ばかりの品を送った。しばらくして届いた彼のメールにはこうあった。
 「あなたが次のPBPに参加する時、私はあなたと自転車仲間たちを歓迎しますよ」

⑮サドルの上からMerci beaucoup

 渡仏前にフランス語を教わった男性講師と久々に会った。トライアスロンをたしなみ、自転車を愛する彼は、私がフランスで走っている間、位置情報が分かる専用サイトをずっとチェックしていた。おそらく事故に遭った時だろう。位置情報の更新が止まってから、私の身を案じていたという。
 一部始終を話すと、彼は事故がひき逃げだった事実に衝撃を受け、「フランス人として申し訳ない。本当にごめんなさい」と繰り返した。彼が謝ることではないのに。だが、フランスの人たちは、その不運を補って余りあるほどの優しさとエール、そして自らの道を進む勇気を私にくれたのだ。それは人生の財産と言っていい。そう伝えると、彼は「良かった」と微笑んでワインを一気にあおった。
 結局、私はPBPをどこか客観視していたのだと思う。確かに参加者ではあったが、主体になりきれなかった。心身の準備不足をはじめ、道中の出来事に多大な労力を割いた結果、制限時間内ゴールへの執着が薄れてしまったのは否めない。次回は必ず、ランブイエに帰ろう。私のPBPを走ろう。
 フランスは、優に100年を超える石造りの家を住み継ぐような文化の国である。コンビニがないことからも分かるように、利便性の追求や消費者優先の考え方は、スタンダードではない。生活スタイルも質素で、すべてにおいて自立が重んじられる空気があった。日本のような過剰なサービスこそないが、自らの意志で行動し、自らの言葉で求める者に対して、フランスの人たちはさりげなく温かい手を差し伸べてくれた。ゴールは叶わなかったが、その手に幾度も助けられた恩恵を決して忘れない。
 11月初旬、私は事故後初めてルクヲに乗った。相方が、島根県出雲市に連れて行ってくれた。PBPの直前も事故の後もルクヲを万全の状態にしてくれたのは、日頃からお世話になっている自転車整備のプロ、奥村さんのお陰だ。2カ月ぶりにサドルの上から切り開く世界と、心地よいスピード。マイナスからの出発ではあるが、皆の支えで再起できた。
 稲佐の浜に立つと、日本海の水平線になぜかフランスの大地が重なって見えた。この先にどんな景色が続いているのだろう。No border & No limit. 性懲りもなく、果てを探し求める自分がいた。

稲佐の浜でフランスの大地を想う

サドBon番外編~鎖骨その後

 帰国後、鎖骨骨折の手術をしてから1年4カ月余り。忘れてはいけない。私の鎖骨は複雑な折れ方をしていたため、この間ずっと金属のプレートとワイヤーで固定されていた。それを体外に取り出す手術のため、私は再び整形外科に短期入院することとなった。つまり、骨が正常にくっついたので、支えは要らないということだ。
 プレート類はチタン製だったので、手術前の説明の際、相方が記念に持って帰って良いかどうか主治医に聞いたが、さすがに叶わなかった。ネックレスか何かに加工したかったようだ。主治医に唯一聞くところがそこなのか、という根本的な疑問はさておき、無事に手術は終わった。

鎖骨をつないでいた金属プレートとワイヤー。手術から1年以上経ち、再度手術して取り出した。


 その後、ありがたいことに縫合された患部の痛みもほぼない。ただ、手術前の点滴で、看護師が右手の甲に針を刺したのが失敗して流血し、これが地味に痛かった。実は最初の入院でも2回失敗しており、もはや恒例行事の域(笑)。痛いのがそこなのか、という根本的な疑問はさておき、無事に退院した。
 サドボン(連載「サドルの上からBonjour 」の愛称)を書き終えてから、世界は新型コロナウイルスの猛威で一変した。フランスで出会った、そして連載にも登場してもらった心優しい人たちが、無事でいるかどうかが気がかりだった。
 昨年5月、コロナの脅威が世界中で高まっていた頃、セシルさんにメールで連絡を取ってみた。PBPの道中、真夜中にバッテリーの電池が果てて、途方に暮れていた私にわざわざ車を止めて声を掛けてくれた女性だ。間もなく返信があり、家族とも無事と聞いて、とても安堵した。日本や私の様子も案じてくれて、彼女の優しい人柄を再び感じた。
 だが、フランスでの感染拡大はその後勢いを増し、医療崩壊の危機も伝えられている。私が現地で救急搬送された病院で、マドレーヌをくれた看護師はどうしているだろうか。恐らく、コロナに翻弄され、心身ともに疲弊しているに違いない。もし今、私が彼女に会えたなら、彼女の手にそっともみじまんじゅうを忍ばせたい。
 どうか神様、他人のために惜しみなく自分の力を捧げている人をお守りください。心が自然にそう呟いてしまう。その少しばかりの余裕も、私自身の回復の証なのかもしれない。(2021年1月執筆)

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