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ショートショートエッセイ(共感の時代に生きる私たちver)

現実感をあじわう(2022/12/4-5)

共感の時代に生きるワレワレには、ライブ感が重要なのである。なんでショート動画が流行るのか、ライブ配信にオレらは食いつくのか、ストーリーをなんとなく見てしまうのか、時系列のタイムラインを更新し続けるのか。スマホの中の別世界に、僕らは現実の時間の経過のあじわいを求めているのである。実世界ではないのである。逆に、スマホで無限大の可能性をあじわえるから、実世界ではご飯とか愛とか仲間とか、あるいは戦争とか平和とか、またまた化学とか学問とか、そして芸術とか人生を削って生み出す産物とか。そんなものをあじわうのである。

僕は、最近もっと現実を生きたいと思うようになっている。スマホタブレットパソコンやらのディスプレイを見ていると、その中は無限の広がりがある。でも、実世界には何があるのか。深みである。実世界は地下へと深まっていき、インターネットでは宇宙へと広がっていく。そんな感覚である。数直線では対極にあるような二つの世界は、僕らという人間、0によって繋がりを持つ。僕らはないようなものであり、シンギュラリティなのである。カタカナ言葉かっこいい。

僕は今住んでいる地域も、日本という国も好きだが、それは愛国心というほどデカくて近代的なものではない。正直、国という感覚がインターネットによって薄れている。肉体的な関わりでは、(例えば戦争とか)国を強く意識するだろう。でも、僕はなぜか世界とか国とかどうでも良くなる瞬間があって、急に脳の回転が現実に焦点を当てるようになる。僕はもしかしたら実体ではなく概念なのかもしれない。

情報が膨大すぎて、何が正しいのかわからないのが普通なのが僕らである。そういう時代に生まれてしまった。僕らが何者なのか、それは僕らが産声を上げた時に一番わかっていて、生きるたびに消えていくものなのかもしれない。はあ、僕らは何者でもなく、いや何者かどうかすらわからなく、君と僕は半分くらいベン図のようにつながって、つながった気がして消えていく。共感の時代である。

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