見出し画像

「もうひとりの宇崎竜童」としての佐村河内守 ~映画『FAKE』を観て~

【※本文途中よりネタバレが有りますこと、ご了承の上でお読みください。】

 ゴーストライター騒動でバッシングを受けた佐村河内守氏に密着したドキュメンタリー映画『FAKE』が6月4日から一般公開されている。監督は、オウム真理教に関するドキュメンタリーがとりわけ有名な森達也氏だ。映画公開前から各種メディアで局所的に話題沸騰で、著名人からのコメントをお読みいただくと、その温度感が作り物ではなさそうなことが伝わるだろう。

――これはドキュメンタリーなのか?

 まず、最初に確認しておかなければならないのは「森達也氏は通常のドキュメンタリー作家とはスタンスが異なるということ」を、我々観客が理解しておく必要があるということだろう。本来であれば、文庫にもなっている森氏の著書『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』を読むのが一番だろうけれども、ここでは劇場パンフレットに掲載されている作家 重松清氏によって監督著書から引用された一文を紹介するに留めておこう。

〈ドキュメンタリーが描くのは、異物(キャメラ)が関与することによって変質したメタ状況なのだ〉

簡単に言い換えれば、ドキュメンタリーの取材対象(今回の映画では、主に佐村河内夫妻)が、撮影されているのを知っている時点で、ドキュメンタリーが完全なる外からの観察にはなり得ない。異物たるビデオカメラが介入することで、現場は確実に変化を起こしてしまっているということだ。

 こうした単純であり当たり前のことが、森監督に言わせれば、既存メディアではないがしろにされていることが多いということになるのだろう。現状のメディアに対する不信と強い不満は、劇場パンフレットに掲載された監督コメントにも、はっきり提示されている。

 その上、もっと驚くべきことには、監督自身が佐村河内氏にこうしたメディア観を講釈し、それを映画内に収めているということだ。ドキュメンタリー作家たるものが、取材対象に質問するのではなく、自分の意見を講釈する(文字通り、対話ですらなく、元メディア側としての講釈を垂れていた)ことなど、通常のドキュメンタリーでいえばご法度だと思うのだが、むしろ森監督はそれを隠すことこそが欺瞞であるというスタンスなのだ。

 話題となっている「衝撃のラスト12分間」についても同じ路線で捉えるべきであるように思われるが、ラストの核心部分については後半まで取っておくことにしよう。

―― 通常のドキュメンタリーとしては最低? でも映っているものは面白い。

 前述した劇場プログラム冒頭に掲載されている監督のコメントを読む限り、森氏の第一義的な目的は、はっきり言ってしまえば佐村河内氏自身ではなくメディア批判にあるとしか思えない。実際、その点を評価する著名人コメントも複数ある。そして自分自身の自覚もあるから「緑川南京」という別名義で、その点についての自己批判もしている。ただ、そうしたメディアへの批判はソーシャルメディアの発達により、もはや珍しいものではないどころか、既に飽きられている感さえあるだろう。他のドキュメンタリー映画と比べてもチープで素人臭いところも目立つし、私自身はその部分については大して興味を持てなかった。はっきりいってしまえば、どうでもよかった。

 私が考える本作最大の功績は、これまで伝聞(メディア発信の情報/新垣、佐村河内双方の記者会見/新垣サイドからの情報)でしか、情報が伝えて来られなかった「佐村河内守」という人物の実態を、観客ひとりひとりが見聴きできるようにしたことだ。もちろん、カメラを通して、編集されたものを通したものではあるが、伝聞で触れるのとは大違いである。演技で騙し続けているのかもしれない。彼は嘘を一切ついていないのかもしれない。その判断、ないしは白黒つけないという判断も含めて、観客へ投げ飛ばしている。

 もちろん、そうしたやり口は、新垣サイドのノンフィクション作家 神山典士氏にとっては論外としか言いようがないものである。神山氏による映画『FAKE』への忌憚なき批判は、互いの立場が真逆ほど違うのだから当然の結果なのだ。そして我々、観客側が気をつけなければいけないのは、森達也氏のスタンスからすれば「神山氏による批判を読んだことにより、森達也も佐村河内と同罪のペテン師だ」というような判断こそが問題である…ということだ。

 そもそも、「出来る限り『真実』を追求することこそがジャーナリズムである」と言わんばかりの神山サイドと、「一面的な『真実』なんて本当に存在するんですか?」と言わんばかりの森サイドが相容れることなどないだろうし、だからこそ神山氏による本作への批判は本当の意味でクリティカルなものだとは言えまい。互いに同時に成立し得ないような、相容れない主張は結局水掛け論にしかなりようがないからだ。

 繰り返しになるが、森達也監督の意図も踏まえた上で(先に述べたような理由により、彼が日頃から主張したがっているようなメディア批判は脇に置いといたとしても)、本作で最も意義深いのは「伝聞」ではない佐村河内守氏の姿と、「伝聞」からは守氏以上に実態がつかめなかった妻の香(かおり)氏を観客の目に晒したことだろう。

―― 何をもって「嘘 ≒ FAKE」といえるのか?

 さて、段々と本題に入っていこう。レンズに収まった実際の立ち居振る舞いを通して、何を感じるのか?――いうまでもなく、それは個々人に匙を投げられているので、ここでは私が何を感じたのかを記そう。

 本作中、一貫して佐村河内守氏は、「メディアが、新垣のついた嘘を一方的に信じて、喧伝している」という主張をしてゆく。やれ、私は実際に聴覚に障碍を抱えている。やれ、私は間違いなく作曲に関与している共作者だ。やれ、新垣はそんなに良い人ではない、と。

 しかし、一方で新垣サイドと真偽を争っていない部分もあるのだ。その主たるのが、佐村河内守氏は楽譜の読み書きが出来ないという点である。そして、佐村河内サイドの弁護士によれば、過去の作品のなかには、実際に旋律だけは佐村河内氏が作曲しているという証拠もあるし、その点については新垣サイドの弁護士と一度も争っていないと。

 本作の映像をみる限り、どこまでが嘘でどこからが本当なのか100%断言できることなんて、それほど多くなく、情況証拠から「ほぼクロ」として、新垣サイドが断定していることもあるのではないかとぐらいには疑うこともできる。結局は、第三者からの判断なんて人柄やイメージで加点減点をした上で、判断してるに過ぎないのだ。

 ただ、どちらの主張も間違っていないのではないかと思われることもあった。それは「楽器の演奏能力」についてである。新垣氏は、佐村河内守の演奏能力について「非常に初歩的なピアノの技術のみ」であると主張している。

 それを踏まえた上で、件のラストシーンに差し掛かると、おそらくはほとんどの観客がどきっとするだろう。新垣氏の手も、誰の手助けもなく、佐村河内守氏本人が演奏と作曲をしようとするのだから。実際、少しではあるが演奏シーンが映る。これを観て、新垣氏が嘘をついていたと思われる方もいるだろう。しかし、プロからすれば、あの演奏は相当に低い段階だと言わざるを得ないのが実情だ。数年弾いていなかったとかそういうレベルの話ではなく、完全にアマチュアの演奏だったのである。しかし、この映像を観たあとでは「非常に初歩的なピアノの技術のみ」という新垣氏の主張は、人によってはちょっと誇張しすぎているように感じるかもしれないが、あくまでも双方で「演奏できる」という言葉で想起されるレベルが違うだけなのだ。

 作曲行為についても、同様のことが言える。ただし、クラシック音楽というジャンルにおいては「楽譜」を書くという行為こそが「作曲」と密接に結びついていることは強く指摘しておく必要がある。録音技術が世に登場する前から、音楽を記号化することで紙の上に記録する方法を見出し、その記譜技術とと不可分の関係にあるクラシック音楽(≒西洋芸術音楽)。民族音楽やポピュラー音楽とは、楽譜に対するプライオリティが違うのだ。現代音楽の作曲家ジャチント・シェルシは、自分の演奏を譜面に書き起こしてもらっただけ(とされている)にもかかわらず、問題にされたぐらいである。目が見えないことによる代筆や、単なるオーケストレーション(管弦楽化)を除けば、譜面を書くということが作曲家の仕事の終着点である。録音物の制作を終着点とはしていないのである。だからこそ譜面を書く工程を自ら行わないクラシック音楽の作曲家など、常識的に考えてあり得ないのだ。

―― 「もうひとりの宇崎竜童」としての佐村河内守

 そして、肝心の彼の真作も音楽大学で作曲を学んだ者からいえば、相当に稚拙で、アマチュアがパソコンで打ち込んだ程度のレベルだと断言できる。最も近いのは、宇崎竜童氏の作曲する劇伴になるだろうか。宇崎竜童氏は、間違いなくプロの実力を持ったミュージシャンであるが、彼の本分はいうまでもなくロックや歌謡曲などにあり、クラシック音楽風の雰囲気に近しい楽曲の作曲については素人レベルの作曲技術しか持っていないことは明らかだ。これではプロの作曲家にはなれても、プロのアレンジャーには成り得ない。宇崎氏には悪いが、なぜ彼がそれでもやっていけるかといえば、彼がロックないしは歌謡曲などの分野で自ら実績を築いているからに他ならないだろう。

 歌ものを除いた劇伴の作曲技術としては正直、宇崎竜童氏も佐村河内守氏の素の実力もそれほど変わらないように思われる。しかし佐村河内氏は自分の素の能力で勝負しようとはしなかった(あるいは勝負したが、相手にされなかったのが実情かもしれない)。加えて、当然だが宇崎氏は、例えば大河ドラマの音楽を担当した際には、編曲者として別の人物がクレジットされていた。何故、佐村河内氏はそれをしなかったのか? きっと、個人的なアシスタントとして直接依頼してしまったことや、プロデューサー的な策略があったのだろう。最初の段階で、単に演奏家ではなく、せめて編曲家としてのクレジットがあれば、今ほど有名にはならなかったかもしれないが、細々とでもコンビで仕事が続けられていたかもしれない。

 この映画を観て、私なりに推論すれば、一連のゴーストライター騒動は「佐村河内氏が最初についたちょっとした嘘を貫き通すために、嘘が段々大きくなってしまい、ボロがでた」ぐらいの単純な問題だったのかもしれないとも思えてきた。フィクションならば、これがひとつの解釈として成り立つ。しかし、これはフィクションではない。だから真実があるはずと思うと、フィクションのように解釈できなくなってしまう。

 しかし、結局はフィクションではなくても、我々は解釈しているし、(ガダマーの解釈学を持ち出すまでもなく)そうするしかないのだ。森達也氏がドキュメンタリーの嘘に自覚的になるべきだと主張するように、我々も自分が解釈をしていることに自覚的にならなければならない。映画『FAKE』を鑑賞後、ついつい語りたくなってしまうのは、映画内に収まることのない、解釈する豊かさが感じられるからだし、逆説的でもあるがフィクションではないからこそ真実を求めて真剣に解釈しようとし続けてしまう。フィクションでないにもかかわらず、相当に開かれた作品であることは間違いない。

サポートいただいたお金は、新しいnoteへの投稿のために大切に使わせていただきます!