ジャズとクラシックの100年【第4回】 1960-70年代:[中編]ジャズでもクラシックでもある音楽

――越境者としてのクラウス・オガーマン(1930-2016)

クラウス・オガーマンという名をご存知の方は、関連作としてどのアルバムを最初に思い起こされるだろうか――やはり知名度が高いのはボサノヴァの父アントニオ・カルロス・ジョビンのアルバムだろうか? それともビル・エヴァンスとのアルバムだろうか?

いずれにせよ、オガーマンの名を高めたのは「アレンジャー」としての能力であり、とりわけストリングス・アレンジの美しさで人気と評価を得たのは間違いないと思われる。

ガンサー・シュラーよりも5歳年下のクラウス・オガーマン Klaus Ogermann  [※本来はKで始まり、n 2つで終わるスペルであった] は、1930年4月29日にドイツのラーティボーア(現在はポーランド領のラチブシュ)で生まれた。意外と知られていない彼の人生の全体像を追ってみよう。


1930-59年:ドイツでの修行・下積み時代

オガーマンが生まれた当時、彼の父はカメラなどを売ったりする店を経営していたのだが今度は新しく小さなレコード店を開くべく、多くのレコードを買い集めていた。しかし折り悪く1933年にナチスが政権を握ってしまうと徐々に表向きで聴ける音楽が制限されてしまう(地下では熱心にジャズのレコードが聴かれていたり、ドイツ人による演奏は堂々とされていたようだが……)。そうした社会的な要因だけではなかったようなのだが、結局のところ店の経営は上手くいかなかった。

この売れることのなかった8000枚ほどのレコードに囲まれて育ったのが、オガーマンである。ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、フレッド・ウェアリング、あるいはクラシック音楽など……オガーマンは大量のレコードを聴き漁ることで、徐々に音楽に目覚めていったという。8歳の頃にはストラヴィンスキー《春の祭典》と出会ったというから、かなりの早熟ぶりだ。

地元の教師に就いてピアノも習いだすが、9歳の頃に第二次世界大戦が勃発。父はその後、ドイツ市民軍(国民突撃隊)に徴兵されたり、終戦後に故郷がドイツ領ではなくなったために移住を余儀なくされたり、その遁走中に母が死去したり……と戦争に翻弄された世代だった。そして戦後、米兵とともにV-ディスクと米兵向けのラジオがやってくることで、再びジャズなど、アメリカの音楽との結びつきを深めていく。

移り住んだニュルンベルクで、ニュルンベルク音楽大学に進学。ピアノ、音楽理論、指揮を学んだというが、オガーマン自身が「かなり酷い、怠惰なピアノ生徒だった」と回顧しているように、あまり真面目に練習はしなかったようだ。それゆえピアニストとしての活動は主にならなかったのであろう。

練習に時間をとられなかった分、色んな音楽を聴くことに時間を費やしたようで、1952年に初めてヨーロッパで開かれた Jazz at the Philharmonic を筆頭に、ヨーロッパで公演をおこなったスタン・ケントン、ウディ・ハーマン、ベニー・グッドマン、カウント・ベイシーなども実演で聴いたという。

そして1952年は、オガーマンがプロとして活動をはじめた重要な年でもある。まずは初めてのオーケストラ作品《叙情組曲》(独:Lyrische Suite、英:Lyric Suite)(1952)をお聴きいただこう。これが大変興味深い作品で、この時点で既にオガーマンらしいサウンドが、ほぼ完成されているような印象を受けるだろう(※下記動画は全4曲中の第1曲のみ)。

オーケストラの通常編成からトランペットとトロンボーンを外し、サックスも使用していない(ただし、なんとテューバは含まれている!)。つまりはビッグバンドのサウンドから敢えて距離をとっているところが特徴的だ。弦楽器を中心としながら、そこに木管楽器で彩りを加えていくという書法も、この時点で既に確立されている。

確証はないが、この作品を書く上でオガーマンが意識していたと思われるのがアルテュール・オネゲル(1892-1955)の《夏の牧歌 Pastorale d'ete》(1920)だ。編成からトランペットやトロンボーンを同じく外していることからサウンドも近しく聴こえ(ただしこちらにはテューバはいない)、弦楽器の刻みに旋律が絡みついていく書法なども共通している。

あるいは、ラヴェルの《マ・メール・ロワ》(1908-10/11)などを参照した痕跡が聴こえてくるかもしれない(こちらも編成にトランペットとトロンボーンを含まない)。

そして1952年にはピアニストとしての活動も始めている。クルト・エーデルハーゲン(1920-82)(※本連載の【第2回】で紹介)のビッグバンドに1952年のみ、マックス・グレガー(1926-2015)のビッグバンドには1952年から1957年にかけて所属していたという。録音も残っているのでお聴きいただこう。

1954~55年頃からはビッグバンドへの作編曲も行うようになっていく。いくつか例を挙げておくと、まずはエーデルハーゲン・オールスターズによる1954年の「Jazz 1954」(作曲:オガーマン)、続いてマックス・グレガーのオーケストラによる1956年の「Max Und Sax」(作曲:グレガー/編曲:オガーマン)と「Dufte And Funky」(作曲:オガーマン)。

ストリングスも無く、オガーマンらしい個性が発揮されているとまでは行かないが、洗練されたアレンジを聴くことが出来る(少し興味深いのは、作曲された2曲どちらも、管楽器と鍵盤楽器を対比させる要素が印象的に用いられている点だ)。

オガーマンのヨーロッパ時代を知る上で、もうひとつ欠かせないのがミュージカル映画の作編曲家としての顔である。1950年代半ばといえば、アメリカではMGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)によるミュージカル映画が最後の輝きをはなっていた時代。当然ドイツでも同じような映画が作られていた。

まずは初めて音楽を担当した映画『Das alte Försterhaus (The old forester's house)』(1956)から少しご覧いただこう。演奏を担当するのは当時所属していたグレガーのバンドだ。他にも映画『Siebenmal in der Woche』(1957)では、当時の人気歌手ヴィコ・トリアーニが歌う「Ananas aus Caracas (Pineapple from Caracas)」「Heute lacht der Sonnenschein (Today, the sunshine laughs)」など、計3曲だけ編曲している。

このように、多様なジャンルをこなせるだけの能力が、既にヨーロッパ時代から培われており、その上でオガーマンは1959年にアメリカへと拠点を移したのだった。その前にあと2つだけ、ドイツ時代にこなした有名ジャズ・ミュージシャンとの仕事に触れておこう。

ひとつめはピアニストとして1955年12月にチェット・ベイカーとの共演である。1955年にヨーロッパツアーを行っていたチェットは、ピアニストとして帯同していたディック・ツワージクが薬物中毒でパリにて急死(享年24歳)。既に決まっていた仕事をこなすため、ピアニストを臨時で雇うことになったのだ。ドイツでのテレビ収録時に代役を務めたのがオガーマンであった。録音も残っており、短いがソロも聴くことが出来る。

もうひとつは、アレンジャーとしてビリー・ホリデイ晩年の代表作《レディ・イン・サテン》(1958)のを手がけたことである。本作がオガーマン関連作としてあまり語られてこなかったのは、当初はオガーマンの名前がクレジットされず、演奏を務めたレイ・エリスによるものだとされてきたからだ。

そもそもこのアルバムはホリデイがシナトラから刺激を受けて制作されたもので、ホリデイ自身としては当初アレンジャーにネルソン・リドルを希望していたが、レイ・エリスの《Ellis in Wonderland》を聴いて、エリスに白羽の矢がたったという。

ここからは推測となるが、プロデューサーのアーヴィング・タウンゼンドの判断、もしくはエリスの都合によってアレンジを外注することになり、ゴーストライターとしてアレンジを担ってくれる人材として選ばれたのがオガーマンであったのだろう。

その際にアレンジのモデルとなったのは、リドルでもエリスでもなく、ゴードン・ジェンキンスであったように思う。シナトラの《ウェア・アー・ユー》(1957)におけるジェンキンスのアレンジと、《レディ・イン・サテン》におけるオガーマンのアレンジを聴き比べていただければ、雰囲気を寄せつつも、似すぎないように注意深くアレンジを行っているように感じられるはずだ。


1959-79年:アメリカでのアレンジャー時代

オガーマンは1959年10月19日にアメリカへ移住する。そのきっかけとなったのは同年3月、3週間の休暇をとってアメリカにミュージカルを観に訪れた際、小銭稼ぎをせずとも優に1年は著作権収入によって生活できると気付いたからであった。実際、アメリカでの仕事量が増えるのは1962年以降のことになる。

オガーマンといえば、1960年代にはプロデューサーのクリード・テイラー(最初の仕事はおそらく1962年、ジャック・ティーガーデンの「ウェア・アー・ユー」のアレンジ)と、1970年代後半からはプロデューサーのトミー・リピューマ(2人の出会いは1966年、初仕事は1976年のジョージ・ベンソンの《ブリージン》)との仕事で知られている。

ただ、最初に仕事をまわしてくれたのは知り合いの紹介で出会ったドン・コスタであり、コスタを通じてクインシー・ジョーンズを紹介され、それがショービズ最前線への仕事に繋がっていった。例えば、1963年にクインシーのプロデュースで全米1位を獲得したレスリー・ゴーアのデビュー曲「It's My Party(邦題:涙のバースデイ・パーティ)」で、オガーマンは編曲と指揮を担当している(クインシーにとっても、これが初めての全米1位となった楽曲だった)。

あるいは、自分名義のオーケストラで「20年代のジャズ」「ドイツ愛唱歌」「ソウル」「ブーガルー(ラテン×ブラック)」「メキシコ音楽」「ラテン・ロック」……と様々なジャンルの名曲をアレンジして詰め合わせたコンピレーションアルバムを制作している。

こうした商業路線ど真ん中でしっかりとキャリアを積みつつ、前述した最初のオーケストラ作品《叙情組曲》のような柔らかいサウンドを活かせる音楽をオガーマンは探していたのではないだろうか。その出会いは1962年初頭に足を運んだブラジルで訪れる。アントニオ・カルロス・ジョビン(1927-94)とボサノヴァに出会い、大いに魅了されたのだ。

ジョビンとオガーマンの相性の良さはどこに要因があったのか。ジョビン自身もクラシック音楽を愛していたことに加え、ジョビンの恩師ハダメス・ニャタリ(ジナタリ)(1906-1988)の存在も忘れてはならないだろう。

ブラジルを代表するクラシック音楽の作曲家といえばエイトル・ヴィラ=ロボス(1887-1959)だが、ジョビンとヴィラ=ロボスのあいだを繋ぐ存在がニャタリなのである。オガーマンのようにポピュラー音楽、クラシック音楽、双方の文脈で独自の作品を残している。

ポピュラー音楽寄りの例

クラシック音楽寄りの例

ジョビンとの関わりでいえば、ボサノヴァ以前のジョビンの力作《リオ・デ・ジャネイロ交響曲》(1954)のアレンジを担当したのがニャタリであった。

若きジョビンとニャタリのコンビでこのような意欲的な音楽を作っていたわけだが、1950年代の音楽としても残念ながらそれほど新鮮さが感じられないかもしれない。ジョビンがボサノヴァという新しいスタイルの音楽を打ち出したからには、なおさら新しい感覚をもったアレンジャーが必要だったのだろう。

1963年のアルバム《The Composer of Desafinado Plays》でオガーマンはストリングスアレンジと指揮を担い、ふたりのコラボレーションは始まった。プロデューサーはクリード・テイラーだ。その後の変遷は詳述しないが、時期の違うアレンジを比較することで、徐々にオガーマンが、自身の個性をよりはっきりと滲ませるようになっていったことがご理解いただけるだろう。

1963年/1967年/1980年のアレンジ比較
1)イパネマの娘

2)コルコヴァード

編曲作品について、ひとつひとつ紹介していくと際限がなくなってしまうため、ここからはオガーマンの作曲作品を主に取り扱いたい。というのも、この頃のクリード・テイラー周辺にはラロ・シフリン(1932- )、ドン・セベスキー(1937- )、デオダート(1947- )といったクラシックとポピュラーの間に股をかけたアレンジャーが多数いたのだが、彼らとオガーマンの最大の違いがオリジナル作品の方向性にあったからだ。この頃のオガーマン作品を語るにはビル・エヴァンスとのアルバムを取り上げなければならない。

1962年、ビルにとって初のヴァーヴでのレコーディングとなった《エムパシー》でクリード・テイラーがプロデューサーを務めていた。そして翌1963年、テイラーのプロデュースによってMGMレコーズでMGMが製作した映画やTVの主題曲を中心にビルが演奏するという企画モノ《Plays the Theme from The V.I.P.s and Other Great Songs》が制作されることになった。ここでアレンジャーと指揮者に起用されたのがオガーマンでだったのである。なお、このアルバムに収録された「ハリウッド」という楽曲の作者は、ビルとオガーマンの連名クレジットとなっている。

こうした仕事によって関係性が構築され、制作に至ったのが1965年の《ビル・エヴァンス・トリオ・ウィズ・シンフォニー・オーケストラ》である。クラシック音楽をオガーマンがアレンジするという企画なのだが、1曲だけオガーマンが作曲した「エレジア」が含まれている。

出版譜によれば、この楽曲はもともと1965年に書かれた《オーケストラとジャズピアノのための協奏曲》[≒ジ ャズピアノ協奏曲]の第2楽章とされている。しかしながら実際には第1楽章と第3楽章が作曲されていなかったようだ。1979年にアレンジし直したバージョンが1980年代に再録音された際の解説に、暗に示されている。

なお楽曲としては、ハーモニー面でオネゲルの作曲した交響曲第3番《典礼風》第2楽章「深き淵より我叫びぬ」からの影響を感じさせることも指摘しておこう。

そして、この方向性を大胆に推し進めたのが1974年の《シンバイオシス Symbiosis》である。アルバム全編にわたり、オガーマンが書き下ろし作品を演奏しているのだが、かなり異質な音楽といえる。なお、第1楽章の冒頭と中間部は後にオガーマンが作曲した《管弦楽のための協奏曲》(1991)の第1楽章冒頭と第3楽章に、第2楽章は《ピアノ協奏曲》(1993)の第2楽章に転用されている。それだけ作曲者自身にとっても思い入れの強い作品であったのだろう。

1977年には意外かもしれないがピアニストのグレン・グールドが本作を激賞している。しかし《シンバイオシス》はあまりに斬新すぎるがゆえ、当時充分に評価されたとはまでは言い難い。21世紀の現在だからこそ、新たな展開をみせる可能性があるアルバムのひとつだ。

例えば、三枝伸太郎 Orquesta de la Esperanza が2018年8月4日 JZ Bratでのライヴで初演した「シーズ Seeds」という楽曲は、《シンバイオシス》第1楽章中間部(トラック2)と、インドのヴォーカル・パーカッション動画のリズムを組み合わせたものであった。

岡部洋一が基調となるグルーヴを叩き、その上でこの複雑なヴォーカルパーカッションのリズム(解説動画を要参照)を小田朋美が歌う。そして歌われた複雑なリズムの旋律を、今度はストリングスなどが《シンバイオシス》第1楽章中間部のようなカラフルなハーモニーを伴ってレスポンスを返す……という内容。クレイジーさとポップさを兼ね備えた、とんでもない楽曲であった。

閑話休題――オガーマンの話題に戻ろう。先に紹介したジョビン楽曲におけるアレンジの変遷でも聴き取れたように、オガーマンは1960~70年代にかけて徐々に裏方に徹せず、自身の個性を前面にだした仕事が増えていく。流行のコンセプトに合わせたアレンジが自分には難しいとトミー・リピューマに宣言し、1979年を境にポップソングのアレンジ仕事からは手を引くことにしたのだ。


1980-2016年:裏方からの卒業

ジョビンやジョージ・ベンソンといった自身の音楽性を活かせるミュージシャンとの仕事は1980年代に入っても散見されるが、基本的には自身の名を冠したアルバム、もしくは他のミュージシャンと連名で主のミュージシャンとしてクレジットされるものを活動の中心に据えていく。そうした方針の先駆となったのが1977年の《ゲート・オブ・ドリームス》と1978年の《アランフェス》だ。

クラウス・オガーマン・オーケストラ名義の《ゲート・オブ・ドリームス》(1977)は、1972年に初演されたバレエ《サム・タイムズ》をもとにしたアルバム。結果としては、すべて自作で占められた初めてのフルアルバムとなった。リピューマがプロデューサーを務め、デイヴィッド・サンボーン、マイケル・ブレッカー、ジョー・サンプル、ジョージ・ベンソンといった豪華プレーヤーをゲストに迎えているのだが、評価は相当に分かれるだろう。

その最大の要因は、サウンドが当時のイージーリスニング(例えばヘンリー・マンシーニ)やAOR(例えばマイケル・フランクス)ないしは、後にスムース・ジャズと呼称されていくような音楽にかなり近しいところにあるため。その問題から唯一逃れられているのが、オーケストラだけによって演奏される「エア・アンティーク」である。

一方、プログレッシヴ・ロックやフュージョン系のギタリスト、ヤン・アッカーマンと連名のアルバム《アランフェス》(1978)はそのタイトルの通り、ロドリーゴのアランフェス協奏曲や、ブラジルのクラシック音楽の作曲家ヴィラ=ロボスの作品などをカバーしたアルバム。そうしたアレンジ楽曲のなかに、1曲だけオガーマンが作曲した「ナイト・ウイングス」が含まれている。

この路線を直接的に受け継いだのが、ダニーロ・ペレスをソロに迎えた《アクロス・ザ・クリスタル・シー》(2008)だ。クラシック音楽のアレンジ楽曲を中心にしつつ、1曲だけがオガーマン作曲となっている(このアルバムについては晩年の作品となるので後述する)。

一方、この路線を更に前へと推し進めたのが、マイケル・ブレッカーとの連名によるアルバム《シティスケープ Cityscape》(1982)と《Claus Ogerman featuring Michael Brecker》(1991)である。全てオガーマンの楽曲のみで構成されたアルバムなのだが、両者の手触りや評価は大きく分かれている。

簡単にいえば、後者はシンセサイザー等のデジタルなサウンドを前面に出し、オガーマンらしい生楽器のオーケストラサウンドをやや後景においやってしまっているのだ。ただし楽曲としては、どちらのアルバムでも初のオーケストラ作品であった《叙情組曲》(1952)を転用している点が興味深い。というのも、推測ではあるが同年に《叙情組曲》を初めて録音しているからだ(もしかするとちゃんとした演奏も初めてだったかもしれない)。

シティスケープを録音した1982年1月――この年にオガーマンはロンドン交響楽団という、ヨーロッパ屈指の一流オーケストラを指揮して自作をレコーディングしている。1982年に発売されたLPでは3曲のみが収録されていたが、1997年に発売されたCDでは5曲収録されている。

追加収録された楽曲が1982年より後に録音されたのか、レコーディングだけされて発売されていなかったのかは、録音日が公開されていないため不明だが(おそらくは後者ではないかと推測される)、追加収録された楽曲の1つが《叙情組曲》であった。

いずれにせよ、過去に作曲した楽曲であまり演奏されてこなかった楽曲をレコーディングしたり、あるいはかつてレコーディングした楽曲をクラシック音楽の奏者が演奏できる形に編曲したりすることに、1980年代以降のオガーマンは力を注いでいる。そうした作品の主だったものを一覧してみよう(WEB上に音源がある楽曲はリンク有り)。

叙情組曲 Lyric Suite》(52年作曲/82年初録音?)
エレジア Elegia》(65年作曲/79年編曲/82年編曲版初録音?)
交響的舞曲 Symphonic Dances》(71年/71年初録音/73&82年再録音)
サム・タイムズ Some Times (Ballet)》(72年初演/73年初録音)
アイ・ラブド・ユー  I loved you》(73年作曲/82年編曲?/82年編曲版初録音?)
タゴール歌曲集 Tagore-Lieder》(1975年作曲/86年初録音)
前奏曲と詠唱 Preludio & Chant》(1979年作曲/82年初録音)
合唱歌曲集 Chorlieder》(1980年作曲/85年初録音)
コンチェルト・リリコ Concerto lirico》(1986年作曲/98年初録音?)
 ⇒後にピアノ伴奏版《デュオ・リリコ Duo lirico》へ編曲
サラバンド-ファンタジー Sarabande - Fantasie》(90年/98年初録音?)
管弦楽のための協奏曲 Concerto for Orchestra》(91年作曲/01年初録音)
ピアノ協奏曲 Concerto for Piano & Orchestra》(93年作曲/01年初録音)

この中で、特筆すべき傑作として挙げておきたいのが1971年に作曲された《交響的舞曲 Symphonic Dances》である。通常のフルオーケストラ(3管編成)を最大限に活かしきった全3楽章にわたる大作で、今後充分にオーケストラのレパートリーになり得る作品であるといえる。

他にレパートリーになり得る楽曲としては、《管弦楽のための協奏曲》の第2楽章「葬送行進曲」だけを単独で演奏するというのもありかもしれない。オガーマンらしい美しさに溢れた作品で、13分ほどの長さはコンサート冒頭などに収まりがいい。

オーケストラ以外でいえば、ヴァイオリンのために書かれた作品の多くはオーケストラ伴奏をピアノに置き直しており、演奏がしやすいだろう。主だった作品は《Works for Violin & Piano》で聴くことが出来る。

あるいはビル・エヴァンス・トリオが録音した《エレジア》は、1979年にピアノとオーケストラの編成に編曲し直されている。既にオガーマン作品のなかではメジャーな楽曲であるため、受容の糸口になるかもしれない。

ガーシュウィンとバーンスタインで現状のレパートリーとしては途絶えてしまっているシンフォニック・ジャズのミッシング・リンクを繋ぐ存在にオガーマンがなれるかどうかは、こうした楽曲がクラシック音楽のリスナー層に受け入れられるかどうかにかかっているといえる。

……こうして世評高い「アレンジャーとしてのオガーマン」は、ほぼ引退状態となり、90年代には作曲家としての活動が中心になった。この状況が変わるには21世紀を待たなければならない。2001年、ダイアナ・クラールのアルバム《ザ・ルック・オブ・ラヴ》で、オガーマンは久々にアレンジャーと指揮に専念している。クレジット上もクラールと連名ではない。

キーマンとなったのはやはり、リピューマであった。クラールを見出し、プロデューサーを務めていたリピューマは彼女のヨーロッパツアーに帯同した際、当時ドイツに住んでいたオガーマンを、ミュンヘンでのランチに誘い出したのだという。望み得る当時最高のジャズ・ミュージシャンに加え、オーケストラはかつてオガーマンが自作を録音したロンドン交響楽団を起用するという最高の条件を提示することで、オガーマンを説得したに違いない。

このアルバムの成功により、リピューマがプロデューサーを引き続き務め、既出のダニーロ・ペレスとの《アクロス・ザ・クリスタル・シー》(2008)と、ダイアナ・クラールともう一作《クワイエット・ナイツ》(2009)が誕生することになる。後者のタイトルチューンは、2010年のグラミー賞で"Best Instrumental Arrangement Accompanying Vocalist(s)"を獲得。これが生前最期にオガーマンが掴んだ栄光となった。2016年3月8日、クラウス・オガーマンはドイツで亡くなる――85歳だった。

発表された楽曲のなかで、おそらく最後に作曲されたのは2008年のダニーロ・ペレスとのアルバムに収録されている「アナザー・オータム」であろうと思われるが、これにも元ネタがある。なんと最初のオーケストラ作品、抒情組曲の最終曲をアレンジし直した楽曲なのだ。非常に余白の多いスコアにもかかわらず、ペレスのピアノが奏でる余韻の長い旋律は間延びせず、シンプルだからこそオガーマンの美しいハーモニーが十二分に堪能できる1曲に仕立て直されている。

* * *

2001年の11月と12月に収録されたダイアナ・クラール《ライヴ・イン・パリ》ではスペシャルゲストとして当時71歳のオガーマンが登場し、指揮する姿を拝むことができる。

この頃のオガーマンは、どのような心持ちだったのだろう? 著作権収入から経済的には一切困っていなかったと思われるが、80年代以降に力をいれたクラシック音楽寄りの音楽は、アレンジャー仕事ほど評価されることもなかった。

本項冒頭にも記した通り “オガーマンの名を高めたのは「アレンジャー」としての能力であり、とりわけストリングス・アレンジの美しさで人気と評価を得た” というのはやはり事実だ。しかし、ラージ・アンサンブルがこれほど盛り上がっている21世紀こそ、作曲家としてのオガーマンに改めて注目し、再評価できるのではないだろうか。

オガーマン作品の魅力はどこにあるのかといえば、それはガンサー・シュラーとの違いにこそ表れている。シュラーは、前半生においてモダニズムの価値観に沿って現代音楽に近づくことで自らの音楽の価値を高め、後半生はジャズのコンテクストを掘り下げることで権威付けしようとしていた。

一方のオガーマンは、彼自身の言葉に沿った表現によれば「モダニズムは主たる目的ではなく、温かみがある感情的反応を引き出したい」「リスナーに届くこと」を自らの音楽において重要視していた。当たり前のことだと思われるかもしれない。だが青年時代、楽器を弾くことよりも聴くことが好きだったオガーマンの原点ともいえる。1970年代まではひたすら現場の最前線で活躍し、1980年代以降もアカデミックな分野には近づかなかった。そういう意味でも、シュラーとはかなり反対側に位置する人生だった。

いつの日か、ジョビン楽曲でのアレンジャー仕事と並んで、オガーマンの作曲したクラシック音楽寄りの作品が彼の代表作として扱われるようになるのだろうか? ポテンシャルを秘めた作品が残されているだけに、その可能性は充分にあるはずなのだが。

(※ビル・エヴァンス・トリオが録音した「エレジア」を、ピアノソロとオーケストラに編み直したバージョン。)


👉【第5回】1960-70年代:[後編]ジャズでもクラシックでもある音楽(※9月中の更新予定)

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小室 敬幸

ジャズとクラシックの100年 (1919–2019)

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