「〜という」を使うな!という風潮なんなの?
ライター業に携わると何度も、そして必ず言われる「“〜という”を極力省け」という主張。
理由は「文が冗長になるから」らしい。その方が上手な文章になるらしい。
私はその風潮が好きではない。たった3文字の節約のために勝手に「〜という」の素晴らしさを奪わないでほしい。
使い過ぎは良くないにしろ、「極力省け」と言われるとそれは違う気がする。「〜という」を適度に使った方が文章が読みやすくなることも多いからだ。
ちなみに太宰治も北方謙三も、松岡正剛もみんな「〜という」を適宜使ってるぞ。
「〜という」は3文字の緩衝材
第1に、難しめの表現をする場合、「〜という」は3文字の緩衝材になりうる。
単語と単語が「〜という」で離れ、区切られることによって視覚的にもリズム的にも読みやすくなることがあるのだ。
ニュアンスが柔らかくなったり、文章のリズムが良くなったりする場合もある。
口語っぽくしたい場合も有効だ(もちろん「〜という」を入れない方が読みやすいパターンもある)。
ニュアンスが伝わりやすくなる場合は、適宜「〜という」を入れるべきだと思う。
初歩的なアドバイスで「〜というを抜けるか試せ」とするならまだしも、「〜というを極力使うな」は言い過ぎだろう。
読み手に優しい、負荷がかからない
第2に「〜という」を使えば、ある文章に対して読み手が感想・意見を保留する余地が生まれる。
読み手に優しい文章にできるのだ。
「社会システムからの逸脱から社会システムの再生が始まる“という”逆説」。
この文章は「〜という」入りがいいか? なしがいいか?考えてみてほしい。
私は「〜という」があった方が読みやすいと思う(文脈にもよるけど)。
「〜という」を抜いて「社会システムからの逸脱から社会システムの再生が始まる逆説」とすると、その意見がすでに断定されているニュアンスが強まるからだ。
仮説を語る場合や少し入り組んだ文の場合、読み手は「本当にそうなの?」と思うはず。
そのときに「〜という」抜きだと、疑問が生まれる余地なく断定されているようで違和感が生まれ、逆に読み辛くなってしまう。
曖昧さや、あとで考慮する余地、説明する余地がある場合、「〜という」がある方が読み手が安心できる。
「この意見について検証の余地があるんだな!」と瞬間的にわかるからだ。
まとめ
「〜という」が持つ緩衝材としての役割と、読み手の判断を保留する役割をおわかりいただけただろうか。
初心者向け以外のケースでは「“〜という”を極力省け」のアドバイスはほどほどにするべきでは?
骨子(こっし)だけで肉がない、旨味のない文章で世の中が溢れてしまうだけだ。
「〜という」は、多過ぎるとうざいが、いないと寂しいし味気ない。
「〜という」の多様性について今一度考えてみてはどうだろうか“という”提案でした。
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