友達いらない、と気づいたその日から。


わたしはちょう下っ端社員だが、
会社の社長の話が好きで、
ひっそりとその話を愛好している。

社長は友達がいないと話していた。
「ぼっちだからここまで来れた」
と堂々としたようすで社長は言う。

社長は、起業家であり、経営者である。
世間的に「成功者」と呼ばれる部類の人だ。
つまり、成功しうる人の素養として
「ぼっちであるか」が含まれる可能性がみえる。

ならば、わたしはどうだろう?

いわゆる、"陰キャ"で
ほんまもんのぼっちなわたし。

学生時代は、ウェイ達の世界を
忍者のように華麗にすり抜けた。

「友達は正義」という学生特有の明るさで、
「ぼっちは悪」かのように宣告され、
何も悪いことはしていないのに、
なぜか、わたしは
肩身が狭く、不憫な思いをした。

しかし、ここからが重要である。

ある世界でさも悪人かのように扱われようが、
実際問題、「ぼっち」は単なる少数派であり、
決して不正解ではないのである。
なにせ、大の社長が
「ぼっち」を公言しているのだから(!)

そんな持論を展開する
ぼっち精神にどっぷり浸かったわたしは、
案の定、仕事を変えたら友達がいなくなった。
というか、連絡を自ら断ち切ってしまっている。

大学時代の知り合い、前職で知り合った人...
そもそも自分にとっては友達ですらなかった。
なぜなら、本音で語り合えた試しがない。
上部だけの付き合いというヤツだ。

そんな 「意味のない繋がり」は、
自分にとってちっとも楽しくないのだ。

しかし、究極の孤独は、むしろ人を殺す。
ぼっちと言えども、
無人島でサバイバル生活がしたい訳ではない。

人間は社会的な動物であり、
誰もが結局は人と繋がりたいということだ。

そうでなければ、ぼっちや陰キャがネットの世界にやってきて、わざわざSNSで繋がる必要さえもない。

「ぼっち」と「そうでない人」の違いは、
人との繋がりに求める質と量が違うにすぎないのだ。

ぼっち精神は、すなわち、
「意味のある繋がりを求めて生きる」
という意識の現れなのである。

その意味は個人によって違うだろう。

趣味であってもいいし、
家族や仲間のような
友達以上に気が置けない関係であってもいい。

それでは、わたしはどのように人と繋がろう?

友達いらない、と気づいたその日から。

わたしはもっとわたしらしく、
変わる変わる、すすむ。

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