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写真を撮る本当の理由【引き金 /トリガー】

だいぶ前に書いた文章。恐らく7年前くらい。今、Youtubeや映像をつくる人間として活動するとなりが「写真を撮る理由」を書いた文章。また、「一眼カメラを買った時の違和感」について書いた文章です。

本題に入るまでの導入が無駄に長いです。昔に書いた感じが出てますね。目次から飛んじゃってください。

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3年前、カメラを買った。一眼レフカメラを購入した。普段、何気ないことから写真を撮ることが多く、「どうせ撮るのであれば、綺麗な状態のモノを残したい」と単純に思ったのが起因している。

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スマートフォンの画質も馬鹿にしたものでなく、並のコンデジクラスの実力はある。だけど、形や体裁、見てくれを表現/体感するためには、少し足りない気がした。

スマホのカメラを構えるだけでは心許ない気がした。だから、一眼レフのカメラを検討し、購入へと足を乗り出した。どこか「写真を撮る権利」を求めていた気がする。

一眼カメラを持つことは、ある意味、権利を買うことに近い気がしてた。

SNSでの写真の普及。

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スマホの普及から始まるSNSの爆発的な普及、それに追随する写真文化の波及。ツイッター、Instagram、facebookなど、主要なSNSで画像が存在しない場所はない。言葉だけが残されることは段々と少なくなってきた。

みな、だれもかれも写真を撮るのが大好きだ。老若男女。若者であればなおさら。むしろ「映え」は若者ならではの文化で、文化を創るのはいつだって未来をしらない若者。それぞれにどんな理由があるか知らないが、皆あらゆる場面でスマホを上へ下へ掲げる。

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思い出に浸るため、今の時間を少し犠牲にし、写真を撮って、自撮りをして、それらをアップロードして他人とやりとりをして。楽しんでいる今を更に楽しむために、シェアをする。

”人生を豊かにするのは人との共有だ”

ある映画にてこんな台詞があった。確かにそうかもしれないが、あまりにも目の前を軽視しすぎたら、共有をする意味があるのか、ほんの少々分からなくなる。

「目の前のことをないがしろにしてまで、そうする必要があるんだろうか」と考える。

やりすぎた共有は共有ではない。

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共有しすぎることは、何も共有してないことに少し似ている。本当に伝えたい人と、本当に共有したい事を、伝え合える。そんな人達はもしかしたら、今、指折りなんではないかと思う。

そう少し考えたが、本当に伝えたい事柄を実際に実行している人がいたとして、その事実は共有されていないので、知らなくて当たり前だった。その事実を僕らは知るすべがない。

理想とは地表に現れないことが多い。実際、僕も本当に好きなものは水面下、オフラインのほうが多かったりする。本当の好きは中々共有できなかったりする。

なんでもかんでもオンラインに流れ、情報が飽和して、「転がってない情報は存在しないという思考」が、一瞬でも自分の頭を過ったことが少し悔やまれる。だからといって時代のせいにはしたくない。

「写真を撮る自分」が好きな人がいる。

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写真を撮る人の中には「写真を撮ること自体より、写真を撮っている自分が好き」「シェアをしている自分が好き」「世界から反応が欲しくてしている人」がいる。統計は知らないが、結構な割合がいると思う。SNSをみてると肌感覚でそう思う。テキトーでごめん。

自分だけで完結しないから誰かに補完してもらう必要がある。ひとりで完結する世界ってのはそれはそれは平和かもしれないが、とてもとても孤独で悲しい事だ。

では、なぜ自分は写真を撮るの?

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えらく話の導入が長くなったが、なぜ写真を撮るのかという話を綴る。結論、忘れるために撮ってる。

僕は、上にも書いたとおり、ふとした時に写真を撮るのがとても好きだった。何気ない夕日から始まり、少し高い坂の上から見える景色、ベンチに座った友人の佇まい、ラーメンを美味しそうに頬張る姿、なんでもない模型の並列、いつもの道に落ちてる変わったもの。

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本当にふとした瞬間が多く、それらの写真に「共有」の目的はない。ただ、ふと見えた景色が目に優しかっただけ、忘れたくないから撮っているだけ。言い方を変えるのであれば、安心して忘れたいから、写真を撮っている事が多かった。そして「安心して思い出したいから」写真を撮ってる。

「今を切り取る」という表現について。

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「”今”という一瞬を切り取ることが出来る」という文言を、写真を撮る理由として言っている人をたまに見る。カメラを売る側もたまに言ってる。だけど、僕の写真を撮る理由はそうでなかった。

”今”を多分、忘れたいだけで、後から記憶の引き金にでも成りえたら、それで僕にとって写真の意味となる。
意味が生まれる。ある言葉を聞いたらある人を思い出すように、母校に行けば当時を思い出すように、記憶のトリガー代わりとして、機能してくれば僕はそれでいいのです。

よく考えるとこれも一瞬を切り取るの文脈の中になるのかもだけど。

大仰なカメラで、写真の役割が少し変わり始めた。

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安心して忘れるため。安心して思い出すため。僕が写真を撮ってる理由はこれ。

それが一眼レフを買ってから少し変わってしまった気がする。何気ない日常を残すための写真が、写真をとるための日常になってしまった。目的と手段が混同している。

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厳密に言えば、100%混同、逆転してしまったわけではないのだけど、少なくとも意識はある程度分散してしまった。「外に出るから、良いものを見れたから写真を撮る」が、「良いものを写真に残したいから外にでる」といった具合に。

家にこもりきるよりいいけれど、なんだか複雑な気持ちになる。もちろん全部が全部そうでないので、一概には言えないけど、カメラを持っている時の気持ちは、以前の純粋な写真への気持ちとはまた違う気がしてる。

「誰のためにとるのか、なんのために撮るのか」というのが頭にひっかかかる。撮っている時は確かに夢中なのだけれど。

趣味と仕事の境目。

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これはどんな行為にも言えることだけど、趣味と仕事は違う。「趣味を仕事にしないほうがいい」とたびたび言われるが、それは責任と需要が生まれるからだ。

好き勝手にしていたものを顧客に合わせないといけなくなる。上の要求に合わせないといけなくなる。

結果として、趣味として好きだったものが段々と純度を落とし、鱗を削られ惰性へと崩れ落ちる。カメラを買って「本当に好きなものは何か」を少し理解できた気がする。

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「写真を撮ること」も確かに好きだけど、それより記憶に残ること、相手の記憶に残ること。それは写真の綺麗さだけが彩ることじゃないことであると改めて考えた。

どんなに雑な写真でも、どんなに画質の悪い写真でも、ぶれている写真であろうと、いい写真というのは確かに存在して、それらに映る背景を知っている人ならその雑な荒い画質から沢山を思い出し、笑顔になる。時には顔をひきつる。もちろん画質とかは大事な要素なんだけども。

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僕が一眼レフで撮るものに関しては、他人の記憶のトリガーではないものが多い。初めてその写真をみるひとが、惹かれるものが撮れたらいいなと考えて撮っている。できてるかは知らない。

そういう点では、「写真を撮ろう」と家を出るときの気分は、ある種仕事に近い。別に誰のためでもないのだけど。

実際、仕事で写真を撮る機会があったけど、あまり楽しくなかったことがある。カテゴリー・トピックもよくなかったんだと思うけど、撮りたいものを撮る以外、自分にはあまり才能がない。

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見て欲しいものは大して多くはなくて、共有したい人というのは決して多くない。横にいる人が見て聞いて、喜んでいるくらいが、不特定多数でなく、ニッチな人が喜んでくれるくらいが、僕にとってはちょうどいいことなんだろうと思う。

安心して忘れて、安心して思い出したいから。それが写真を撮りたい理由。

さて、あなたはなぜ写真を撮るんですか。
どうしてカメラを構えてるんですか?

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カメラのたのしみ方

(ライター | 文筆 | Webデザイン)言葉とカルチャー好き。仕事や趣味で文章を書いてます。専攻は翻訳(日英)でした。興味があって独学してたのは社会言語学、哲学、音声学。留学先はアメリカ。真面目ぶってますが、基本的にふざけてるのでお気軽に。