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電車から見える「ジオラマ」

 神様視点の何様。溢れんばかりに人がいて、それぞれが生活してる。干渉の余地はなく、出来上がった世界をみるオートパイロット状態。

神様気分

 少し高い地上を走る列車に乗ると、街の様子が見える。神様視点で街を俯瞰できるからか、なんだか少し偉そうな気分にもなる。

 同じサイズの人たちが、少し離れるだけで小さくみえる。小粒。人がアリのよう。

 車窓から見える景色は、ジオラマのよう。模型遊びやレゴブロックを動かすように街の人の動きをコントロールしてる気分になる。

 レゴとは違い、大きさはその数倍。なんせ枠もなければ、収まる鞘もない。こどもの時の遊びとはスケールが違う。宇宙と違って「角」はあるが、電車から見る分には、概ね無限。見える景色を「レゴ」とするなら無限にブロックがあり、いくらでも遊べる算段が踏める。驚異的な数字。

 しかも各々が動く。登場する人物全て動く。それも気ままに勝手に動く。彼らは自分の意思をもって動いてる。ままごとなら、僕らのおもいのままだが、そうはさせてくれない。好き放題にマクドナルドにもいけば、スーパーにもいく。ジムにも行く。各々がしたいように、生活している。

神様でなく、俯瞰する鳥

 見える景色はジオラマなようでいて、傍観する僕らに干渉する術はない。

 どこかへ遠くへ行くとき、とても便利な手段、電車。そこから映るは、それぞれの生活。

 スーパー袋片手に自転車を漕ぐ女性。
 疲れた顔をしてるであろう肩の下がったリクルートスーツ。
 楽しそうに喋りながら歩く男子校高校生諸君。
 
 はっきり見えずとも、想像は明瞭で、余地がある。動かせないレゴがあって、それらをみるオートパイロットが電車の僕たち。眺めることしか出来ない。動かそうなんて痴がましい。

 神様でもなんでもなく、ただ鳥のように街を見てるだけ。

 街を一望し、溢れんばかりに人はいるのに、知人はそういない。「友人」となると、さらにほんの一握りになる。知った所で仲良くなる人も存外そう多くはない。不思議なもんだ。

 星の数ほど人はいるけど、星には手が届かない。地上の人たちには言葉も手も届くのに、それも案外届かない。どうもこれは、距離だけの問題じゃないらしい。

 見える人分だけ、その数生活があり、劇的。使い古された言葉だけど、仲良しが一人でも、数人いるだけでも、十分天文学的数値なわけです

地上が見える列車の特権

 地下鉄では楽しめない、地上を走る列車の特権。

 僕らにとっての生活も、誰かにとってのジオラマのように映るのかもしれない。誰かをいつも誰かが見てて、誰かをいつも自分は見てる。

 景色が見える列車にのるときは、そんな風にぼけっと外を眺めてる。帰宅途中の人たち、どうか家路まで気をつけてください。

 それではまた。





(ライター | 文筆 | Webデザイン)言葉とカルチャー好き。仕事や趣味で文章を書いてます。専攻は翻訳(日英)でした。興味があって独学してたのは社会言語学、哲学、音声学。留学先はアメリカ。真面目ぶってますが、基本的にふざけてるのでお気軽に。