私の失われた時を求めて
プルーストのお仕置きならぬ、プルーストとの対話を黙々と続けております。
毎朝、子どもたち、主人、犬の順で朝食の準備をし、その後片付けをし、部屋を掃除し、洗濯を干し、午前九時から始まる授業の準備を整えると、ひとりそそくさと居間の一角に戻ってきて、さあプルースト。
好きなんかい?!と聞かれますとそう一筋縄で答えられるものでもないのですが、はい、なんといいますか、確実に沼ですね。
はまっています。
……とはいいつつ、ページ数はあまり進んでいないのが哀しいところ。
一番切ないのは、この遅々たる進行状況の原因が、プルーストの文章だからなのか、英語の文章だからなのかがはっきりしない。
英和アプリ片手に、なんども同じページを行きつ戻りつしつつ、理解の及ばないところはかなり想像力で補いつつ、でも面白みは確実に増しています。
この、なかなか寝つけないらしい語り手の意識の流れに、読者の私はかなり素直に追従していると思うのですが、このご本人が、この長大な物語の本筋の主人公なのか、あるいはギャツビーを見守るニックくん的存在なのかすらも、まだわからぬまま、意識の流れにそってあっちに振り回され、こっちに振り回されしながらページを繰る日々。その奔放ぐあいときたら、優しいママのおやすみのキスを寝室の暗闇でじっと待つ健気な子どもに彷徨い入ったかと思えば、自身の骨から一夜の快楽を共にする女性の幻想を生み出しそれに呑みこまれていく感覚の持ち主に(なんという…)、かと思えば見知らぬ街の宿で、心細い一夜を過ごしながらひたすらに朝の光を待ちわびる旅人に……あれ? 私はいったい誰の話を読んでるのだったっけ?と思いながらも、こんな旅の経験はしたこともないのに、なぜかそのうらびれた西洋の片田舎の宿屋の感覚を思い出すような気持ちになってしまうのが、この語り手の魔法なのでしょう。
そんなことを考えながら、もしかして、と本を閉じ、ふと宙を見つめます。
もしかして。
この本を読んでいる間だけは、私はひょっとしたら、プルーストその人の意識を、そのままに、共に生きられるということなのだろうか?
考えてみればぞっとする、しかし当たり前と言えば当たり前な、読書って本来こういうものだったんだという感覚の素晴らしさに恐れおののきながら、朝の30分を過ごすのです。
ところで一言申し上げたい!
学生時代に私がプルーストに漠然とした恐怖を抱いた背景には、当時、国語の先生が引用した冒頭の一文、
というものがありました。
原文はもちろん「?」でしたが、日本語訳がまた難しい。
まず「宵寝」って、読めないし……。
「宵寝になれてきた」って、なに……。
と、中学生の私はもうこれだけで途方に暮れてしまったのでした。
でも今回、調べてみると、これは1953年に新潮社から出ている単行本の訳で(井上究一郎、淀野隆三共訳)その後、五回にわたって改訂されているそうです。
これだけでもだいぶ変化を遂げていますが、それに相重なるように、鈴木道彦氏の訳でも
と、冒頭部分については、長年にわたり、いろいろな試みがなされているようでした。
ところが今回私が、望まずしていただいてしまった英語版では、なんと……
中学生でもわかるやないかい!
過去にハリセンしたいのは私だけでしょうか。
これこそ、まさに地で行く読書体験……私の失われた時を返して。
英語版がやってきた時は衝撃的でしたが、捨てる神あれば拾う神あり。物事はよい方に考えましょう。
ちなみに、この冒頭部分の日本語訳に関しては、無理に標準語にしようとするとなかなか難しそうですが、たとえば関西風に
とかにしたら、なかなか悪くないと思うのですが……。
二度と意識がコンブレーに戻っていけなくなりそうなので、黙ります。
いやあ翻訳って大切ですね。
というわけで、明日も、失われた時を取りもどすべく、今日も早めに床に就きたいと思います。
おやすみなさい。
ごきげんよう。
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