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プルーストか、プルースト以外か。

「今世で読むべきか、読まざるべきか」と、実は10代から悩んできた本がある。マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」である。

そんな大げさに今世をかけて悩むぐらいなら、さっさと手にとってしまえばよかったものを、一旦手にとればそのまま10年ぐらい他の本が読めなくなりそうな切なさに、若い頃は克てないままに、うじうじと来てしまった。
結果、マドレーヌの香りから邂逅するシーンや、見出された時の下りなど、有名なシーンがもう自分の大切な一部になっているというのに、本編は知らないという詐欺師のなりそこないのような情けない人生を送っている。

それが去年、Noteで出逢ったたくさんの素敵な「プルースト読了」記事に触発されて、よし!と腹を決めた。

……まではいいのだが、やはり自分から潔く本屋に出かけて行って手にとる勇気はなく、クリスマス・プレゼントの希望を聞かれた際に、あくまで他人事のように、自分ではぜったい買えないだろう物の例として周囲に漏らすという姑息なことをしていたら、12月25日。
いただいてしまったのだ。

家族、親族から一冊ずつ、どどどどどどんと、計6冊。
そう。Vintage Classicsでは、6冊なんですね。

っていうか、え?!
…と、そこで初めて気づく馬鹿。

英語やん!!

日本語でも読み通せるか、通せないか、かなりきわどいというのに、英語だなんて壁、高すぎしんさく。
この本は、私の元には読みやすい形ではけっしてやっては来てくれないというオイデプス的運命に、どうして気づかなかったのだろう。
損切りができないままに株式を放置していたら含み損が大変なことになってた系の、問題を放置していたらもっとビッグになってやってきた系の、人生の法理を垣間見た感覚に、それはそれで感動した。

「原文(フランス語)じゃないだけ、感謝だね」とほほ笑むみんなは、テナルデュエ一家の末裔でしょうか。

ああ、もうこれで墓場まで持っていく本には苦労しないなあ、と感慨に浸っていたら、人生でもっと読めたかもしれない、出逢えたかもしれない本の数々が彗星のように遠い空に散っていくのが見えて、無性に哀しくなった。

こうなったら踏ん切りをつけなきゃいけないと、思い切って新年から、居間の角を掃除して、「プルーストの一角」という聖域をつくった。

なんか別の本が置いてある…💦

なんてことはない、窓際の隅っこに小机と椅子を置いただけなのだが、その机の上には「失われた時を求めて」第一巻が鎮座している(原則…)。そして私は今週から、朝食を終えて家事を済ませたら、迷うことなくその一角に直行し、椅子に座って30分間、ひたすらにプルーストを読む。
こうなったら、もう修行である。
お仕置きコーナーである。

でも、「プルーストのお仕置き」タイムを設けたことで、思わぬ副産物があった。
他の、あらゆる本との時間が、まるで引き裂かれた恋人との邂逅のように愛しい時間と早変わりしたのだ。

家事と仕事のすきまに、家の至るところにある、あらゆるジャンルの読みかけの本を開く、この束の間の幸福は以前は気づけなかったもの。
制限というものは、人生をより豊かにするものだなあ、とつくづく思う。
禁じられるほどに燃え上がる恋のように。

まあ、それもこれもプルーストのおかげ。
全方位的に深遠な文学なのでございましょう。
今年から、何年かかるかわかりませんが、雨の日も風の日も、どうぞ末永くよろしくおねがいします。

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