【ぜんぜん終わってなかった!深堀り編】「散歩がつまらない」という自分が一番つまらない。
昨日いただいたコメントから、またパッと光のついた感覚があったので、散歩シリーズに追記です。
……ちなみに、まだ「気づき」という言葉も知らなかった十代の頃、この「パッ」と視界に電球がつく感覚を、友人二人と「ぴこんぴこん」と呼んで「ぴこんぴこん倶楽部」なるものに入会していました。懐かしいなあ。
で、今回の私のぴこんぴこん。
「散歩が苦手な自分がつまらない」という私の一連の記事について、紡ちひろさんから温かい理解とコメントをいただき、今後さらに解析したい点として「外的なものに刺激を受ける人、内的なものに刺激を受ける人の違いもあるのでしょうか」との視点をいただきました。
これを読んで、私の前頭葉に取り付けてある現場用ヘッドライトが大発動。「そうそうそうそうそうそう、そうなんだよな~!」となっています。
そうなんです。
たとえば今、ここでキーボードを打つ手をやめて、外に出て、頬をなでる風を感じ、木漏れ日の中に透けてみえるアーモンドの花びらを見上げて、その向こうの空が……っていうのも本当に素敵なんですが……いえ、ここは「が」じゃなくて、素敵です。
本当に素敵です。
まったく反論ありません。
でも私は10歳で、こんな文章を読んでしまったんです。
これは孤児院から老兄妹に引き取られてきたアンが、それが間違いであることをまだ知らずに、これから暮らす村への道でみた光景を描いた描写。
野生のすももが、爪先をたてて水にうつった自分の方を眺める白衣の少女です。爪先をたてて水にうつった自分の方を眺める白衣の少女!
黒ずんた教会の尖塔が、金盞花色の空に霞んでそびえているのが、もう見えますよね?
そしてパラグラフは締めくくられます。
私が今ふらっと外に出ても、黒ずんだ教会の尖塔は見えないし、野生のすももはあってもそこに白衣の少女はいないし、白い星を見てもそれが幸福の約束のようには、見えないんですね。
わずか10歳で、こんな風景に出逢ってしまった。
今思えば、これはとても残酷なことです。
これと同様なことは、現在、プルーストを読んでいるときにも5分に1回ぐらい起こっていて、プルーストが描写する光景や香りや音の表現のあまりの豊かさに、自分が体験するよりもはるかに大きな感動を、文章の中に得てしまうんですね。
これは嬉しい発見でもあり、哀しい発見でもありました。
もしこの感動を幸福と呼び、より大きな幸福を、散歩よりも読書に感じてしまうというのなら、すばらしい文学に出逢えて来た喜びは深くても、私自身は、自分の感性を発動させられない感受性の乏しい、感知力の貧しい人間なのではないか。
そしてここでまた、もうひとつ疑問が。
これまで、私は散歩中に得られる刺激を外的、文学作品から得られる感動を内的と思って書いてきたけれど、もしかしたら自分ではない「外部」からという意味では、読書から得られる刺激も「外的」なのかも。
うーん。なにをごちゃごちゃいっているのだろう。
解決までの道はほど遠い、ということだけはわかりました。
と同時に、気づきそのものは、それはそれは嬉しいものでした。
だって、私の散歩は、まだまだ発見できるし、開発できる!
開いた窓からは春の午後の風が流れこみ、外にはほんとうにクロッカスの花が見えます。鉢植えだけど。
四の五の言わずに散歩、行ってきます。
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