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【ぜんぜん終わってなかった!深堀り編】「散歩がつまらない」という自分が一番つまらない。

昨日いただいたコメントから、またパッと光のついた感覚があったので、散歩シリーズに追記です。

……ちなみに、まだ「気づき」という言葉も知らなかった十代の頃、この「パッ」と視界に電球がつく感覚を、友人二人と「ぴこんぴこん」と呼んで「ぴこんぴこん倶楽部」なるものに入会していました。懐かしいなあ。

で、今回の私のぴこんぴこん。
「散歩が苦手な自分がつまらない」という私の一連の記事について、紡ちひろさんから温かい理解とコメントをいただき、今後さらに解析したい点として「外的なものに刺激を受ける人、内的なものに刺激を受ける人の違いもあるのでしょうか」との視点をいただきました。

これを読んで、私の前頭葉に取り付けてある現場用ヘッドライトが大発動。「そうそうそうそうそうそう、そうなんだよな~!」となっています。

そうなんです。
たとえば今、ここでキーボードを打つ手をやめて、外に出て、頬をなでる風を感じ、木漏れ日の中に透けてみえるアーモンドの花びらを見上げて、その向こうの空が……っていうのも本当に素敵なんですが……いえ、ここは「が」じゃなくて、素敵です。
本当に素敵です。
まったく反論ありません。

でも私は10歳で、こんな文章を読んでしまったんです。

クロッカスやばらや、透きとおるような、草の緑が、この世のものとも思われぬ影をおとしている上に何とも名のつけようのない、とりどりの色が消えたり、あらわれたりしていた。橋の上手は森になっており、池のふちに生い茂っている樅や楓などが、ゆれる水面にうっそうとした半透明の影をおとしていた。ところどころ野生のすももが岸からのりだしている様子は、爪先立てて水にうつった自分の姿をながめる白衣の少女を思わせた。

「赤毛のアン」村岡花子訳
https://innergarden.hatenablog.com/entry/20140421/1398057197

これは孤児院から老兄妹に引き取られてきたアンが、それが間違いであることをまだ知らずに、これから暮らす村への道でみた光景を描いた描写。

野生のすももが、爪先をたてて水にうつった自分の方を眺める白衣の少女です。爪先をたてて水にうつった自分の方を眺める白衣の少女!

しばらく前に日は沈んだが、なごやかな夕あかりの中にあたり一帯がひと目で見張らせた。西のほうには黒ずんだ教会の尖塔が、きんせん花色の空にそびえてた。

同上

黒ずんた教会の尖塔が、金盞花色の空に霞んでそびえているのが、もう見えますよね?

そしてパラグラフは締めくくられます。

その上の晴れ渡った西南の空には、大きな水晶にも似た白い星が道案内のように、そして幸福の約束のように輝いていた。

同上

私が今ふらっと外に出ても、黒ずんだ教会の尖塔は見えないし、野生のすももはあってもそこに白衣の少女はいないし、白い星を見てもそれが幸福の約束のようには、見えないんですね。

わずか10歳で、こんな風景に出逢ってしまった。
今思えば、これはとても残酷なことです。

これと同様なことは、現在、プルーストを読んでいるときにも5分に1回ぐらい起こっていて、プルーストが描写する光景や香りや音の表現のあまりの豊かさに、自分が体験するよりもはるかに大きな感動を、文章の中に得てしまうんですね。

これは嬉しい発見でもあり、哀しい発見でもありました。

もしこの感動を幸福と呼び、より大きな幸福を、散歩よりも読書に感じてしまうというのなら、すばらしい文学に出逢えて来た喜びは深くても、私自身は、自分の感性を発動させられない感受性の乏しい、感知力の貧しい人間なのではないか。

そしてここでまた、もうひとつ疑問が。

これまで、私は散歩中に得られる刺激を外的、文学作品から得られる感動を内的と思って書いてきたけれど、もしかしたら自分ではない「外部」からという意味では、読書から得られる刺激も「外的」なのかも。

うーん。なにをごちゃごちゃいっているのだろう。
解決までの道はほど遠い、ということだけはわかりました。

と同時に、気づきそのものは、それはそれは嬉しいものでした。
だって、私の散歩は、まだまだ発見できるし、開発できる!

開いた窓からは春の午後の風が流れこみ、外にはほんとうにクロッカスの花が見えます。鉢植えだけど。

四の五の言わずに散歩、行ってきます。



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