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【問題編】「散歩がつまらない」という自分が一番つまらない。

「ネットで何かを書く」ということ=世界にむけて何かを届けること。
望む望まないにかかわらず。

そういう媒体の性質上、できるだけそのままの感情を書くんじゃなくて、せめて少しメタ認知できてから、ちょっとでもアレンジできてからとがんばっていたのだけれど、今日は例外で。

散歩がつまらない…という自分が許せない!!

以上、目下の悩みです。

散歩がどれだけ身体にいいか。
習慣として素晴らしいか。
ストレス解消になるか。
歩く瞑想になるか。
はたまた世の天才たちにどれほど愛されてきたか。

ここに繰り返すまでもありません。
きっとNoteでも大半の方が、散歩を愛し、その豊かさを日々に取り入れられていることと思います。
素晴らしいことです。

しかし私は散歩がつまらない。
そしてそんな自分が何より許せない。

ちなみに、私の暮らす界隈では、
「あのね、散歩がつまらなくて…」
などと発言しようものなら、人々はささっと数センチは引いて、まるで私が無自覚の人種差別主義者か、動物虐待支持者かのように一瞬、眉間に皺をよせて見つめたあと、おもむろに憐れみと理解の表情を浮かべます。
「それはもちろん、人それぞれよね。いろいろあっていいと思うよ」
と優しい言葉。
うわ、哀れまれている、と感じる瞬間です。

「あなたがそういう状態なのは、あなたが悪いわけじゃない。
ただ、私たちが恵まれてきたような環境に、あなたは恵まれなかっただけ」
そんな心の声がダダ洩れです。
(ポスト新自由主義者たちめ、、、)

ただ、もっと痛いのは、私自身が、自分のことを、まったく同様に感じている事実。
散歩がおもしろいと思えない自分が、何より誰より許せないのです。

だって、そんなことってあるでしょうか。

地理的にだけ見ても、私は故郷の人々が、必死の思いで働き稼いだ有給休暇を使い果たして、「やってくるのが夢だった」と言われるような国のひとつに暮らし、歴史好きな人には文明発祥の地、一種の歴史的聖地にバス30分でいける距離に住んでいるのです。
それで散歩がつまらないなどとほざくとは、
それで散歩がつまらないなどとほざくとは、
私の出身地方なら、
つまらんのはおまえや!
とハリセンです。

なんと心が貧しい、
人として終わっていると、
自分が一番思っています。

でもね、つまらないんです。
そして、どうしたらいいのかわからない。

もう本当にどうしたらいいかわからないので、
明日はちょっとここを分析をしていこうと思います。
自分にしか益のない話を書いて申し訳ありません。

せめて、何かのきっかけになりますように。

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