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どんな正当な理由で殴られたとしても殴り返したくなるのが人というものだから

※タイトルについて、誤解を生むと行けないので、まず先に。
私個人は「いかなる理由があろうとも、暴力に正しいものはない」という考え方です。
その「大前提」をもってして、これを書いています。

(では本文へ。)

自分の不満の原因が、100%他人にあり自分に非が全くなかった場合だとしても。
それを解消するには、やっぱ「自分には」または「自分で」何ができるのかを考えないと、どうにも「具体的」にならない。
(何で悪くない自分のほうが動かねばならんのだ?というのはもっともなんだけれども!それでも!)

「誰かを非難してスッキリしてお終い」を否定はしないが、喩えるならそれは単なる一時的な「痛み止め」でしかなく、「治療薬」にはならない感じ、とでもいえばいいのか。

――その場しのぎの「痛み止め」はいずれ、量を増やさないと効かなくなってくるかもしれない。
そうなると結局、「痛い痛い」と言っている人はそのまま世の中にあふれ、そしてそのうち自分の痛みを紛らわすために(それが正義である場合も含め)更に誰かを言葉で痛めつけながら、自分の痛みを単に「ごまかして」、結果、更に多くの数の人の痛みを増幅させる気もする。
例えば、「殴られてもそりゃあ仕方ない」理由で殴られたとして、でも、それが力任せの本気モードの殴打だったら?――やっぱり「はい、殴られて当然ですから」とはならないのではないか?と。(少なくとも、全ての人間はそうはならないし、殴られたその鬱憤は何らかの形でどこかに返したくもなるものでしょう?)

だから、「正義」でも、「言葉」でも、それで「人をいたぶる」「他者を叩きのめす」というほうがいつか目的になってしまうような、そんな精神にどこか傾いてしまっては、よろしくないのだろうと私は思う。
「それで終わり!」「ハイ、解決しました!」とは、なかなかならないからである。(少なくとも、全てのケースがそのように落着することはない。)
つまり、そこには諸問題の「終わり」も「解決」もますます生まれにくいのだ。

「理不尽」「不正義」は、この世に既に存在するとして、(無論、それらは存在してよいわけはないし、仕方ないわけでもまたないけれど、でも、「既存である」というその事実を前にして、)それを「言葉で糾弾・非難するだけ」よりは、「どうしたらそれが減るだろうかの具体案・行動案」を考えて、「実際に自分自身が動いて」解決を試みるほうがいいんだろうなあ、なんて、ふと思った次第。
(というこんなのは理想論であることは、重々承知しているけれども!)