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「感情に記憶はない」と爆笑王は言った

私の夫は四十代半ばなんですが、これまでの人生で、「ライブ」と名のつくものに一度しか行ったことがないそうです。
電気グルーヴとか、好きなアーティストはいるんですが、ライブ会場に足を運ぼうとは思わないとのこと。
音源を買ったりネットでMVを見たりはしていますが、「決められた時間に、わざわざ出かけていくのが面倒」なんだとか。
日頃から「めんどくさい」が口癖の人なので、私の感想は「らしいよねぇ」というところなんですが、そんな夫が、これまでにたった一度行ったライブというのは、『稲川淳二怪談ライブ』だそうです。

稲川淳二に限らず、夫はとにかく怪談が好きなんですよ。
家でもよく配信等で聴いてます。
私はホラー系が得意じゃないので、「怖いから、ヘッドホンして!」と頼んだりしているんですが、ある時、夫が同じ怪談を何度も聴いていることに気づいたので、こう尋ねてみたんです。
「何回も聴いてたら、もう怖くないでしょ?」
「いや、好きな怪談は何回聴いてもいいよ」
「え~っ?? その感じはよく分かんないなぁ」
「別にヘンじゃないよ。自分だって、同じ落語何回も聴いてるくせに」

私の方は落語好きでして、確かに好きな噺は何度聴いても面白いと感じます。
でも落語は、噺家さんによって演出が変わったり、ネタによってはサゲ(オチ)も違ったりもするし、同じ人の口演でもその時々に違った味わいがあるわけで……。
それに怪談って「驚きがキモ」という感じがしませんか?
「何度も聞いても、その度にビックリ!」なんてことはあり得ないのだから、飽きるはずでは?
そう主張してみましたが、夫は「いや、何度聴いても、いいものはいい」の一点張りで、結局お互いに相手の気持ちがよく分からないまま……。

ということが以前にあったんですが、実は昨日、
「なぜ私は同じ落語のネタを、夫は同じ怪談を何度も聴いても面白いのか?」
という疑問の答えを見つけてしまったのです。
答えは、こちらの本の中にありました。

『らくごDE枝雀』の著者・桂枝雀師は、生前「爆笑王」と呼ばれ、上方落語界を代表する噺家さんでした。
買ったのはおそらく十五、六年前で、度々読み返しているんですが、昨日パラパラとページをめくるうちに、以下の部分が目に飛び込んできました。
(この本は枝雀さんと落語作家の小佐田定雄さんの対話形式になっており、口語で書かれています。)

わたし考えますに、知的なものには記憶があるが、情的なものには記憶がないと思うんですよ。(中略)「知的なもの」ちゅうたら噺の趣向、ストーリーですわ。こらいっぺんおききいただいたら記憶されますからナ。「ア、この噺こないだきいた」ちゅうあれですわ。
「情的なもの」ちゅうのは、例えばだんなァ、赤ちゃんの笑顔見て「かわいいなァ」と思いますわね。で、赤ちゃんがもいっぺん笑た時にでっせ、「さいぜん笑た顔見たさかい二へん目はかわいない」てなことはおまへんわね。やっぱり「かわいい」と感じますわ。これすなわち「記憶がない」わけで、「古典落語」といわれるものが、同じストーリーをくりかえしながら、いまだにお客さんに喜んでいただいてんのは、この「情的なもの」のおかげやと思いますねん。

「情的なものには記憶がない」
これが、私の疑問への答えなんだと思います。
「怖い!」という感情も、「面白いなぁ」「楽しいなぁ」という感情も、深いものであれば、何度でも繰り返し味わえる。
だから夫は稲川淳二の怪談『生人形』を繰り返し聴き続けられるし、私は枝雀師の『寝床』や『宿替え』を何度でも楽しめる。
そう考えると、非常に納得が行きます。

「なるほどねぇ」と思った拍子に、以前自分がこんなツイートをしたことを思い出しました。

短期間で消費される「コンテンツ」ではなく、長く愛される「作品」であるためには、枝雀氏の言う「情的なもの」が必要、ということなんだと思います。

また、私が脚本家目指していた頃に通っていた教室の先生は、よくこんなことを言っていました。

これも枝雀師の「知的なものは記憶されるけれど、情的なものは記憶されない」という言葉と符合しますよね。
だから脚本家は、”お話”ではなく、”ドラマ”を描かなくてはならないのだと、改めて痛感しました。

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