見出し画像

アートとデザインの違いって?

“表現”という言葉は、アートの世界ではとてもよく使われますが、これがなんとも捉えどころがなくて、わかるようでわからない…
なので、この“表現”という言葉を考えつつ、アートとデザインの違いについても欲張りに考えてみたいと思います。
例えば、
「この絵は私の気持ちを表現しています。」
とか、
「この曲は森の静けさを表現しました。」
とか、
表現という言葉はとても曖昧なものだなーと思いますし、

「これが私の表現なんだ!」

と言われてしまうと、

「はぁ、そうですか…」

と受け入れざるおえないようにも思えてしまいます。

じゃあ“表現”ってなんだ?

と考えてみたいなーと言いつつも…
実は今の私には一つ仮の答えとしているものがあります。

それは、
「表現とは、作者の主観的な認識の表出である」
ということです。

これを説明するために、
『“熱い”を表現した 赤 青 緑 の絵』
という3つの例を考えてみたいと思います。
イメージしやすいように簡単な図を書いておきます。


熱いを表現する3つの絵

①熱いと赤
例えば、作者が“熱い”と“赤”を繋げて考えて、赤い絵を描いたとします。そしてその絵について「熱さを表現しました!」と言ったとしましょう。これは、割と理解しやすいかもしれません。何故なら熱く赤いものの代表として身近に“火”があるので、“熱いと赤”は結びつけやすく、割と普遍的な感覚のように感じられるからです。だからこそ作者も熱い感覚を赤で表現しようと思ったと考えられます。しかし、一方でこれは“当たり前”すぎる感覚のようにも思います。

②熱いと青
次は“熱い”と“青”を繋げて考えて、青い絵を描いたとします。そして同じように「熱さを表現しました!」と言ったとするとどうでしょう?共感してくれる人の数は“熱いと赤”よりも少なくなるように思います。でも、作者は火は高温になると青い火になることを知り、青い絵でより強い熱さを表現しようと考えたとしたらどうでしょう?確かに火は高温になると青くなるし、
『熱い→火→高音→青い火』
と言った感じで、“熱いと青”という表現は主観的な認識のように思えますが、青い火が実際に存在する以上“理解”することは出来そうです。

③熱いと緑
最後に“熱い”と“緑”が繋がると感じて緑の絵で熱さを表現したと言ったらどうでしょう?
例えばこんな話を仮定してみます。

作者はバックパッカーとして旅をする中で、砂漠地帯を進むことになりました。その中で、ずっと砂の色や木々の枯れた色ばかりを見て1ヶ月近く旅を進め、砂漠を抜けた時に鮮やかな緑色を見た。とても久しぶりに見たその緑色は、網膜を通り越し身体全体に染み渡り、胸の奥深くに鋭い熱さとともに、ずっしりとした優しい温もりを感じさせてくれて深く感動した。

みたいな体験をもとに「緑色で熱さを表現しました!」という絵を描いたとします。
この場合、作者の体験や作者の考えから緑に熱さを感じたのだとしたら、そう感じた作者の心は事実なので表現としては間違っていない。ただし、鑑賞者が熱さと緑を繋げて考え“理解”し、“共感”することは出来るでしょうか?


表現とは?

3つの例を考えてみましたが、ここでさきほど書いていたことを思い出してみます。

「表現とは、作者の主観的な認識の表出である」

ということ。

主観的な認識とは“私”がどのように感じて、感じたことをどのように“私が形(表現)にするか?”ということかなと思います。その点で①②③の絵についてこんなことが言えるのではないでしょうか?

①“私”は熱いと赤いをつなげて、赤い絵で熱さを表現しました。
②“私”は熱いと青いをつなげて、青い絵で熱さを表現しました。
③“私”は熱いと緑をつなげて、緑の絵で熱さを表現しました。

ということになり、
どれも作者の主観的な考え方で描かれた絵として理解出来そうです。
他の例も考えてみると、
真っ黒の絵を描いて「私の悲しみを表現した」とか、黄色の絵を描いて「私の喜びを表現した」とかはどうでしょう?そう言われれば、それは確かに作者の表現ではあるわけです。だから、作者の表現として“受け入れざるおえない”。
これが冒頭の、
「これが私の表現なんだ!」という意見を否定出来ない部分です。
でも、
“黒と悲しみ”をつなげるとか、“黄色と喜び”をつなげて表現することは、あくまで作者の“勝手な考え”であるということを忘れてはなりません。どんなに黒と悲しみに関連性がありそうだとか、黄色と喜びに関連性がありそうだと感じても、作者の勝手な解釈なのです。同時に火という熱くて赤いものが存在してしていたとしても、“熱いと赤”をつなげて考えることも作者の勝手です。高温の火が青いことから、「熱いものは青いものだ!」と考えている人にとっては、“熱い”と“赤い”がつながらない人もいるかもしれない。個人的な体験や経験から導き出した“熱いと緑”をつなげて考えることももちろん作者の勝手なのです。

だから、

「表現とは主観的なものであって、作者が主観的な関連性を見出すことが出来れば、どんな表現も成り立つ」と言えてしまうのだと思います。

しかし!
ここで重要な気づきがあります。

それは…
“鑑賞者”の存在。

つまり“表現”が“鑑賞者にどのように伝わるのか?”という視点です。(この場合の鑑賞者は“熱いと赤”を一般的な感覚だと認識している人としておきます)

これを先ほどの3つの絵で比較すると、

①作者→熱いと赤、鑑賞者→わかる(当然)
②作者→熱いと青、鑑賞者→驚き(意外)
③作者→熱いと緑、鑑賞者→?(発見、感動or拒絶)

という“鑑賞者側”の感覚が見えてきます。

今度は3つの絵を鑑賞者側から見てみます。

鑑賞者から見た表現とは?

①熱いと赤とをつなげて描かれた赤い絵は、日常的な感覚として火というものがあるので、当たり前です。だから、その赤い絵自体が魅力的なものならば、素敵な絵になるのは間違いないですが、現代の感覚から言うとそこには驚きも発見もない。鑑賞者としては至極当たり前のことを言われているだけだなーという感覚になると思います。

② 熱いものは赤いという日常的な感覚があるので、青色が熱いとなかなか繋がらない。むしろ青いものは冷たいと感じてしまうわけですが、確かに高温の火は青い火になります。言われれば知っている普通のことなんだけど、事実と論理(ロジック)により、鑑賞者としては意外又は新鮮な感覚があるように思います。

③ 熱いものは赤いし、反対の冷たいものは青い。そのどちらでもない緑は熱さとはなかなか結びつかないし、事実、緑色で熱いものは存在しないように思います。だからロジックでは結びつかない主観(個人)から生まれる全く新しい感覚。その感覚は、描かれた緑の絵が本当に熱さを感じさせるような魅力的で説得力のあるものであれば、新しい感覚として鑑賞者を魅了(説得)することが出来る。それは感動と呼ばれるくらいのものかもしれません。何故なら今までに考えた事もなければ、想像もしたことのないような未知の感覚なのですから。一方で、緑の絵に魅力がなければ、独りよがりなとてもつまらないものになってしまい「どうぞご勝手に」と、未知が故に拒絶してしまう鑑賞者もいるように思います。

そんなことを考えているとある世界観も見えてきました。
改めてここでもう一度簡単な図にまとめてから細かく書いてみます。

趣味・デザイン・アートのエッセンスとは?

①赤い絵は、趣味の世界?
熱いと赤をつなげようとした絵は、ぶっちゃけ鑑賞者にとっては無くてもいいもの。熱いと赤が結びついて素敵な絵が出来たとしても、作者から「良いよね?」って言われて、良いと思ったら「良いよね!」って言って終わり。何故なら鑑賞者は“知っている”から。「火って熱くて赤いよね??」って言われても、「そうだね。」としか言えないし、「赤いって火の色だし、熱い感じするよね?」って言われても、「そうだね。」しか言えないみたいな感じ。だから作者が楽しんで作ったのか?とか、作者にとって重要かどうかが問題で、ここがいわゆる“趣味”の領域なんだと思います。

②青い絵は、デザインの世界?
熱いと青いをつなげようとした絵は、ロジックに基づいて新鮮な驚きを与えるデザインの世界だと思うのです。デザインというものは、当たり前だと言われるようなものを作っても意味がないし、逆に全く理解されないようなものを作っても意味がない。事実やロジックをもとにしっかりと説明が出来て、今まで気づかなかった、又は知っていたけど言われたら新鮮で驚きがある“視点”を提供するものだと思うのです。だから青い絵ではさすがに熱さを感じないなーと思って、“描かれた青い絵そのもの”はあんまり面白く無くても、“アイデアは面白い”みたいなことが起こる。その結果、面白いアイデアをうまく伝えられるような“青い絵を如何に描けるか?”を考えるためにデザインが生まれてくる。

③緑の絵は、アートの世界?
熱いと緑をつなげようとした絵は、主観的な個人が社会に対して意見を表出する世界であり、これがアートの世界だと思うのです。熱いと緑をつなげるものは、普遍的な感覚として共有されているものでもないし、ロジックでも繋がらない。個人から発生した全く新しい“見方”。“視点”というものは、既に存在しているものをどの方向から見るか?ということですが、“見方”は対象そのものをどう見るか?によって、捉え方そのものを変質させてしまうこともある。それは正の方向性であっても、負の方向性であっても本当は構わない。アートは癒しを与えるものであるとも捉えられますが、個人が社会に与えるものが癒しである必要はない。むしろ個人が社会に“問う”ものなので、“問い”そのものが誰かを傷つける事もあれば、議論を巻き起こし世の中が乱れることもある。何故なら、それまでの世の中にない感覚を個人の体験や経験から“問う”ているのであり、それに対して受容も拒絶もどちらでもありえるのだと思うのです。

という世界観が私には見えてきたのですがどうでしょうか?

まとめ

表現をする作者から、鑑賞者へ。
鑑賞者から作者と鑑賞者を包括する世界観へ。
そんな流れから、デザインとアートの違いについて考えてみました。

ですが、デザイン領域やビジネス領域でも“問い”を立てれる人が求められているとか言われるわけですし、実際にはデザインの世界とアートの世界も“溶け合っている”と思います。
例えば、

・デザイン7割・アート3割
・デザイン2割・アート8割

と言った状況もありえると思いますし、この2つは既に分断されていない。

さらにここでいうデザインの領域をアートだと言っている人もいると思いますし、デザインの領域でアートの話をしている人もいると思います。
そういう意味でも混ざり合っている。

又、趣味の世界でも…
自分のためにやっているんだけど、密度がどんどん高くなって、今までにみたことがない“熱くて熱すぎる、赤くて赤すぎる火”みたいな、ものすごい物が出来上がることもあるわけです。それは、デザインやアートの世界のように人々に新しい“視点”や新しい“見方”を生み出すこともあると思います。

全てが混ざり合っていて分断することは難しいのだけど、

趣味
デザイン
アート

というそれぞれの要素(エッセンス)は、結構こんな感じじゃないかな?と思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?