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透明

滞りなく過ぎていく毎日は彼女にとっての理想だった。

朝起きてから夜眠りにつくまでのあいだ、すべての事柄が自分によってのみ決定されて、ほかの何事にも影響を受けないような。それは当たり前のように思えるものの、実際の生活で、生きていく上でその感覚を得られることは奇跡的な幸福であることを彼女は知っていたから。

大きな夢や目標は持たないまま、それでも歳は確実に重ねていき、できることや考えられることもどんどん増えていった。ただ、それが自分が心から望んだことであるかと言われるとそうではないと思っていた。
でも、心から望んで手に入れることができるものなんて、けっきょく人生の中で、片手に収まるくらいなんじゃないか。いまの自分を考えてみるとどうしてもそう思ってしまい、そう考えるといまの自分はそれなりだ。そう思えた。

人に関わらない生活。
彼女がそれを始めてからどれくらい経つだろう。
意識的にスタートを切った訳ではなく、毎日生活していく中で無意識的にどんどん人との関わりを疎ましく思ってしまい、人からの誘いに乗ることもいまではほとんどなくなってしまった。どうしてこの人は私のことを誘うのだろう、いまでは彼女はそう思って怪訝にしか思わない。もしかしたら他人を理解しようとしない偏屈な人間になりかけているのかもしれない。自分勝手の偏屈おばさん。あと10年もしたらそんな風になるかも。ときどきはっとして、でもそれでも良いかも。そう思ってしまう。

ひとつひとつの行動に気をつける。
世の中の人は自分が思う以上にだらしなく、当たり前と宣伝されているようなことをきちんとしている人はほとんどいなかったりする。
ペットボトルを捨てにいくとき。キャップもラベルもそのままで、中にはまだ100ccほど液体が残っている。その中にキャップをとってラベルを剥がし、中を水で濯いだ空のペットボトルを置く。見るたびに彼女の心の中ではなんとも言い難い不満が渦巻いた。どうして?と考え始めても、どうやっても解決には導くことができない問題がたくさんあることを認識するしかなかった。

二人で暮らしていたときもそうだった。
理解できることとできないことが常に存在していて、人と暮らすといういうことはその相入れない部分でさえも補い合えなければいけないのだな。
この人のことが好きだ。たまらなくそう思う日が続く。それでも、朝目が覚めて隣を見て、ふと、どうして私はこの人の隣に寝ているのだろう。この人はどうして私の隣にいるの。それはお互いのことを好き合っているからなのだけれど、それだけでは納まりがつかないもやもやのようなものをときどき感じていた。

不意に見せる、まるでこの世の修羅場でも見てきたかのような表情が好きだった。
彼女のことを好きだと言った人が、彼女と別れた後に手紙に書いた言葉。
それは彼女の癖で、不意に興味を持ったことについて思考が移ってしまう。
無意識的で、もしかしたらそれは人といることからの逃避なのかもしれない。

人といるとき、彼女は戸惑う。
相手を不快にさせたくない。そう思うから、心の荷は重く、気を遣う。
しばらくするとそれに耐えられなくなって、目の前にいる人から逃避したくなる。でも、突然出ていくことなんてできっこないから、心が逃げ出してしまう。
そんなとき、彼女の表情はなくなって、人によっては不安がられるような表情と撮られてしまうらしかった。

人といることは心地良いときもあるけれど、そうでないときもある。
それを理解すると話は早かった。
思う存分一人でいよう。
人との関わりは無くならないけれど、一人でいることが多くなった。
好きなだけ本を読み、音楽を聴いて、公園のベンチで飽きるまで雲の流れを見続ける。目的もなく街に出て、通りを歩く人を観察する。こんなに人がいるのに私は一人だ。いつまでもそれは不思議な感覚だけれど、いまは楽しかった。

心の中がどんどん自分だけになっていく。
あの人の言葉もあのときの記憶もいつの間にか遠くなって、
そこには入れ替わるように読んだ本の、見た映画の記憶が納まっていった。
はじめて彼女は彼女だけで構成されるようになった。
誰かに導かれることもなく、共に居続けてくれることもなく。一人で。透明に。


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