鬱病の三大妄想、病気・罪業・貧困について考えてみるなど

2月10日(土)晴れ

今朝は疲れが出てしまったのかブログをなかなか書けなくて時間が経ってしまった。

昨日Twitterで「鬱病の三大妄想」という話が出てきたので少し調べてみた。

鬱病の三大妄想というのは初めて聞いたが心気妄想(自分が重大な病気にかかっている)・罪業妄想(自分が重大な罪を犯している)・貧困妄想(貧困に陥っている)の三つということらしい。

これらはそんなにはっきりしたものではないから、実際、妄想なのか現実なのかわからないケースもありそうだ。だから妄想しやすいのだろうけど。逆に実際には病気にかかってるのにかかってないふりをしている、罪を犯しているのに侵してないふりをしている、貧乏なのにそうでないふりをしている、みたいなのもあるような気がする。

考えてみると、病気、罪業、貧困というのはつまり人生における「苦」というものの具体的なイメージなのだなと思う。これらは他者との関係で出てくるものというよりは、自分の中に存在している「苦」という感じがある。

他者との関わりで出てくる「苦」といえば、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦みたいなまさに仏教的なものになるが、「いつか振られるんじゃないか」「好きな人から嫌われてるんじゃないか」「嫌な奴がいるんじゃないか」みたいな関係性から出てくる「苦」みたいなものも妄想としてはありそうなのだけど、それらよりもこうした妄想の方が多いのであれば、より本質的な苦しみだということなのかなとも思う。

心気妄想は生老病死の「病」や「死」に関わり、場合によれば「老」にも関わるのだと思うが、「罪業妄想」というのはより魂のレベルの苦しみという感じで懺悔などというシステムはそれを救うためにあるのだろうなと思う。

貧困妄想というのはどちらかというより社会的なものということになるのか。貧困の苦しさというのはいろいろあるとは思うが、食べるものにも困るということもあるし、社会生活を送るにも困るということでもあるので、どちらにも関わってくるということか。

そのように考えてみると鬱病という病、妄想という現象は実に哲学的というか宗教的な側面もあるのだなと思う。

考えてみると、私自身も病気とか罪業とか貧困とかのイメージというのは結構持っていて、それを直視しないようにしているところがあるなと思った。若いころはそういうイメージにはまってしまって身動きが取れなくなることも多く、それをいなす心の習慣みたいなものを歳を取るにつれて身につけていくという面があるのだろう。

うつ病に最もよく効く薬はお金だという話があって、これは冗談なのか本当なのかよくわからないけれども、動くことができなくなって一番困るのは働けないことであり、それによる貧困のイメージ戦うことで余計疲れてしまい動けない、ということはあるだろうから、お金がある程度あれば安心で症状も携快する、ということは事実あるだろうと思う。

当然ながらそうなるとうつ病には経済的側面も福祉的側面も出てくるわけで、うつ病というものを多面的に考えていくことで現代社会というものが見えてくるところはおそらくあるのだろうなと思った。自分にはおそらく苦手なアプローチなのであまり突き詰めることはないと思うけれども、自分の思考により客観性を持たせるためにはそういう視点も必要になることがあるのかもしれないなという気もしなくはない。

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