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ジャニーズ性加害問題から見える歪な日本社会の「性」意識について



0.はじめに

性暴力は決してあってはならないものだ。
しかし、今年ニュースでジャニーズの性加害問題が報じられ、日本社会の闇がまたひとつ浮き彫りになった。というのも、これは一個人、一事務所の不祥事である以上に、社会全体に巣食う病理といえるからだ。
この問題の本質を根本から問い直さない限り、また同じような悲劇が繰り返されるに違いない。
そこで今回は「性暴力問題」の本質を問い直し、二度とこのようなことが起きないために何ができるかを考えていきたい。


1.歪んだジェンダー観

今回の事件で指摘される点として、
「もし被害者が女性だったらもっと早く問題が明るみに出ていただろう」
というものがある。
要は男性の性被害は表面化しにくい、ということだ。それはどうしてか。
「男性は加害者にはなっても被害者にはなり得ない」という誤った認識を持つ人が多いからだと思われる。
では、なぜそのような認識が形成されてしまうのか。それは、
「男は女を守る(支配する)べき存在感として強くあらねばならず、それができない男は男に値しない」
という、これまた誤った考え方が背景にあったからだろう。

それでは、どうしてこんな考え方に毒されてしまったのか。
それは思考を放棄し、効率化の名のもとで抑圧を正当化してきたからだ。
これは性暴力に限らず、あらゆる偏見に言えることだが、偏見が生まれる理由は、それが楽だからだ。
たとえば、「男は仕事 女は家庭」という典型的なジェンダー思想がある。こうした考え方を社会に広めてしまえば、男性が育児休暇を取得しにくいことや働きすぎの問題を考えずに済む。なぜなら、それが「当たり前」として処理されるからだ。
逆に、女性の給与を上げたり昇進させたりすることも無視できる。なぜなら、それも「当たり前」として処理できるからだ。

つまるところ、偏見とは思考放棄のことなのだ。それは科学的・論理的な考えではなく、呪術的・迷信的な考え方に基づいている。ということは、こうした偏見をどれほど克服できているかは、その国の文明の高さを示す指標となる。しかし日本は、今回の事件でわかったように偏見が跋扈する社会だったのだ。
こうした偏見が生じないような対策が必要である。


2.男女バランスによる「分権」の必要性

さて、こうした性にまつわる偏見が生まれる原因は、男性中心社会にある。早い話が女性差別の問題だ。
学校教育では女性差別があったことは教わるが、なぜ差別が起きたのかという原因の説明は不十分だと思われる。
それについては以下の文献が非常に参考になる。

本書では人口の再生産を行うさい、男性側の欲望を満足させねばならなかったこと、それが女性差別の要因のひとつだと説明している。つまり、女性は男性に奉仕しなければならない、という傲慢で抑圧的な思想が昔からあったのではないか、ということだ。
もちろん、本書の説明はあくまで仮説の域を出ない。しかし、ひとつの説として傾聴に値すると私は考えている。

こうした男性中心主義・女性蔑視の社会があまりにも長く続いたために、ジェンダー思想が遺伝子レベルで刷り込まれた。そして、性的行為の主体は男性、客体は女性という認識が支配的になる。その結果、性的客体として暴力を受けてきた男性の救済が遅れてしまった。なぜなら、性的客体として扱われるのは女性だという考え方によって男性被害者の声が届かなかったからだ。
・・・と、いうのが私の仮説である。
また、未だに政治の中心が高齢男性ばかりであり、若者や女性の声が反映されていないことも性差別の大きな原因だと私は見ている。
すなわち、老若男女バランスの悪さが問題になっている。

実生活においてもそれは言える。
たとえば、男(女)ばかりの学校(職場)というものを経験したことのある人もいるだろう。
そのとき、居心地の悪さを感じたことはないだろうか。
これは筆者の実感だが、男ばかりの職場でかつ田舎だとセクハラや性差別がまかり通るイメージがある。
私は北海道の田舎で暮らしていたことがあるが、そこは男ばかりで女性は少なかった。そこには妻子がいるにもかかわらず、若い女性に絡む愚かな男がいた。もし女性の数が多ければ、そうしたことは起きにくかったと思われる。

また、女ばかりの場所も居心地が悪い。
工場に勤めていた時期、従業員の多くはパートの女性だった。中には親切な方もいたが、傲慢不遜な「方々」もかなりいた。これも男性がもう少しいれば状況は改善されたのではないかと今では思っている。

男ばかりの空間でセクハラ的風潮が蔓延るというのは、わかりやすい図式といえる。もともと人間は男性中心的な社会を形成し、女性を性的客体として見てきたからだ。
では、なぜ女ばかりの空間は陰湿になりやすいのか?
これは私の憶測になってしまうが、おそらくこういうことだ。

女性は男性から支配されてストレスを受ける。そしてそのストレスを男性社会にぶつけることはできない。なぜなら、そこでは男性が支配的であり、差別されるから。
女性ばかりの空間が成立すると、そこには暴力的に秩序を維持する(父権的な)男性がいないため、ある種の無政府状態(アノミー)となる。よって、男性に抑圧されたストレスが野放図に解放される。さながら獰猛なライオンが檻から出されるように。それが女だらけの空間に特有の陰湿さを発生させているのではないか、私はそう考えている。

宝塚の女性が自殺し、その原因が劇団でのいじめにあるのではないか、というニュースがあった。
断定はできないが、少なくとも女ばかりで、しかも上下関係が厳しい空間が、居心地良いものであるはずがない。だからそこで大きなストレスを抱えていた可能性は極めて高いだろう。
このように、男(女)だけの空間というのは暴力的、抑圧的になりやすい。だから本来はそうならないよう調整しなければならない。

※話は変わるが、私が12才に黄金時代を送ることができた原因もここにあるのだろう。
小学生時代は男女比がほぼ均等でバランスが良い。さらに11~12才頃は男子より女子の方が身体の成長が早い。それにより、男女の体格差が調整される。そうすると男子は体格差を理由に女子を抑圧しづらくなる。後は担任が優秀でクラスがある程度まとまれば、楽しく過ごせる可能性が高いのではないか。
当時の担任は非常に優秀で、クラスのまとまりも安定していた。女子たちも「女」に染まっておらず、明るく元気な人が多かったと記憶している。そういう意味で、今思えば絶妙のバランスだったといえる。
しかし中学に入ると男女の身長差は逆転し、私が「悪魔との契約」と称する「第二次性徴」によって男子は性慾まみれの「男」となり、女子はそれまでの素朴な「娘」から「女」となってしまう。しかも女は男から性的客体として見られることになる。制服も出席番号も区別され、ここから本格的に「男(女)らしさ」を吹き込まれ、ジェンダー思想に染め上げられていくのである。


3.性慾主義者たちの誤解

話を元に戻そう。
次に、一般社会でよく遭遇する「性」に関する、あまりにもお粗末な意識について見ていこう。

読者の皆さんは「恋人いないの?」
と聞かれて「いません」と答えたとき、
「ってことは男(女)好きなの(笑)?」
とバカにしたような態度で返されたことはないだろうか。
そしてそのとき、そうした相手の態度に気味悪さを覚えた経験はないだろうか。
私はこういう経験が何度かある。
そして大抵、彼らは中年であった。

まあそれはともかく、彼らは異性との関係を「性慾ベース」でしか考えられないことがわかる。こうした偏見から抜け出せない人のことを私は「性慾(至上)主義者」と呼んでいる。より露悪的な表現をするなら「下半身主義者」とも言えるだろう(こちらの方が印象に残ると思うから以後は「下半身主義者」と表記させていただく)。
異性との関係には様々なバリエーションがあり、性慾ベースではない関係も存在する。それを私は高校時代に見出だした(機会があれば詳細を語ろう)。
しかし、下半身主義者はそういう関係を想像すらできないのだ。彼らはこう考える。

「異性との性慾を満たすのは気持ちいいことであり、本能だ。満たさない人がいるとすれば、何か特別な理由があるに違いない。その理由としてまず思いつくのは、同性愛だから、この人は男(女)が好きなのだろう」

いかにも独断と偏見に満ちた判断だが、こうした考え方をする人は少なくない。類似の偏見としては、
「結婚は女の幸せ」
「家庭を持ってこそ男は一人前」
などがある。
令和になったというのにこうした老害思想が抜けきれないあたり、問題の根深さを感じる。

恋愛や結婚、生殖を「やって当たり前」だと考えるとどんな問題を引き起こすか。
それは、「異性(あるいは同性)を性的な対象としてしか見れなくなる」
という問題だ。
容姿、スタイル、財産や地位、そして性的経験値。そうしたフィルターを通してしか相手のことを見ることができなくなってしまう。
しかし性暴力というのは結局、相手を自分の欲望充足のための道具としか見ていないからこそ起こる。
だから、余計なフィルターや性慾を介さない関係性を見つけることは、性暴力への強力なカウンターとなる。というのも、そうした関係性が評価されるにつれ、相手を性的にのみ評価しようとする風潮は、衰退せざるを得ないからだ。


4.ルッキズム批判

さて、性暴力のような、相手を性的対象としてしか見ない行為の背景には何があるか。それは「ルッキズム(容姿至上主義)」だろう。レフ・トルストイは『クロイツェル・ソナタ』において世の中の贅沢品の多くが女性によって消費されていることを批判している。
これは一見すると女性批判に見えるが、私の見立てではそれは表の顔にすぎない。これは女性批判の形をとった男性批判である。
どういうことか。

これは女性がなぜおしゃれ(装飾)しようとするかを考えればわかる。それは男性へのアピールだ。もし、男性が少しでもおしゃれをする女性を「見栄っ張りだ」と軽蔑するとすればどうなるか。おそらくほとんどの女性はおしゃれをやめるであろう。なぜなら、そんなことをしても振り向かれないばかりか、敬遠されるだけだからだ。振り向く可能性があるからこそおしゃれするのであって、なければする意味はないのだ。

つまり、男性が女性に見た目の美しさを求めれば求めるほど女性もそれに応えようとするので、ますます奢侈や虚飾が増えることになる。逆もまた真なりで、美しさをそこまで求めなければ奢侈や虚飾は減る。その結果、化粧品の広告のような、本来商品のスペックと関係ないものにかかる費用を抑えられる。
だから男性側の判断が大事になってくるし、その責任は重いのだ。

ひとつ例を出そう。
かつては痩せている女性より小太りの女性の方が美しいとされる時代があったという。
それはおそらく、当時は乳児死亡率が今より高く、生まれた子が死ぬ可能性も高かった。したがって、子孫を残すためには多く産む必要があり、そのためには痩せた身体より丈夫な身体のほうが良かったのだろう。だから小太りのほうが評価された。
今は乳児死亡率も下がり、医療の発展で寿命も延びた。だから多く産まなくても後継ぎを残せる。むしろ、産みすぎるとかえって人口爆発を引き起こしてしまう。
そういうわけで、何度も出産に耐えるための小太り体型が求められなくなった。
その結果、見た目的に贅肉が少ない、つまりより視覚ノイズが少ない体型のほうが美しい、ということになった・・・。

以上はすべて私の推測にすぎない。
ただ、ここで述べたいのは美しさというのは普遍的なものではなく、時代や国で変わるものだということだ。
メディアは「美しいとはこういうことだ」と画一的な基準を押し付けがちだが、本来美しさの尺度は複数あっていい。どれだけメイクやファッションをマスターし、洗練された美貌を持つ女性であっても、田舎の農家や牧場で自然と共に生き、屈託のない笑顔が自然にこぼれる村娘にはある意味では敵わないのだ。
人を評価する観点は、もっと多角的であったほうがよいだろう。


5.カウンターカルチャーによる問い直し

では、評価基準や関係性の問い直しをするために何をすべきか。それは文学やアニメ、マンガ、ゲームなどのサブカルチャーで新たな価値観を提示することだろう。つまりカウンターカルチャーである。
以前別の記事で私は、

「ギャルゲーは恋愛(シミュレーション)ゲームではなく、恋愛のような何かを疑似体験するゲームだ」

と述べた。
要するに、ギャルゲーは現実の恋愛を画面上に移植したものではなく、別の価値観を提示したカウンターカルチャーだと思っている。
もし仮にすべての人間が現実の恋愛に満足していれば、どんな立派なギャルゲーを作っても売れるはずはない。なぜなら、現実の恋愛で充足できるからだ。高度成長やバブルとその崩壊により、自意識が高まりすぎた恋愛に疲れたからこそ、一時的とはいえギャルゲーバブルが起きたのだろう。
ギャルゲー全盛時代はプレステ、サターンの時代、94年以降だったと思うが、この頃はバブル経済も終わり、神戸震災やサリン事件も起きて社会不安が高まっていた時代だ。
現実に希望が見出だせなかったからこそ、人々はバーチャル空間に逃避したのだろう。それが結果的にバブルを生むことになった。

このように、ゲームやマンガなど様々な媒体から性問題や他者との関係を問い直すことが大切だ。
他の記事で何度も述べていることだが、恋愛・結婚・生殖には多かれ少なかれ暴力性が伴う。「男」と「女」の関係は「少年」と「少女」の関係より数百倍も危険なものだ。
したがって、恋愛・結婚・生殖につながらない関係性を、それらに劣る下位互換として扱うべきではない。むしろその関係性を高く評価し、そこから多くを学ぶほうがよいだろう。

恋愛・結婚・生殖を安易に肯定してしまうと、性慾を満たすことが「善(勝者)」とみなされ、満たせないことは「悪(敗者)」とみなされかねない。私は孤独な生活を送っているため聞いたことはないが、男性が性的経験人数を自慢することもあるという。それこそまさに性慾の充足を善(勝者)とみなす下半身主義的発想に他ならない。

恋人いない歴=実年齢を自虐的に語るネタも見直す余地がある。これは恋人がいることを「善(勝者)」と捉えるからこそ生まれるネタと言えるからだ。
発想を展開したほうがいい。長きに渡って恋人がいないということは、別の観点からすれば孤独という名の独立を守っている、ということでもある。
私も大した記事を書いているわけではないが、読者の中には私の記事に関心を持ってくれる方がいるかもしれない。そうした記事が書けるのは、私が独立を守ってきたからともいえるのだ。孤独は自分との対話を促し、私の場合は文章表現へとエネルギーが向かった。その結晶が記事となったということだ。

貞操(性的経験)についても同じことが言える。特に男性は性的経験がないことを自虐的に語ったり、時にはそれを理由に軽蔑されたりすることもあるが、それも結局は下半身主義者の発想にすぎない。
性的経験がないということは、さながら植民地において、原住民が宗主国の横暴な支配に対し抵抗するようなものだ。勝手に侵略し、人も土地もめちゃくちゃにした傲慢な支配者への抵抗である。
すなわち、性的経験は自身を「少年(性的に無害な存在)」から「男(性暴力の主体になりうる存在)」へと売り渡す行為であり、それを経験していないということは、ある意味で少年の心を売り渡さず独立を守っているとも評価できるのだ。

こうした見方は異端かもしれない。
だが、ここで言いたいのは画一的な見方が広まると暴力的になるため、それにカウンターを仕掛けることが必要だということ。様々な考え方が許容されていけば、性的エネルギーを暴力的にではなく、平和的に消費するようになるだろう。

日本は歴史的に性におおらかな国だったと言われている(反対にキリスト教が支配したヨーロッパは禁欲的だったと言われる)。
たしかに表面だけ見ればギャルゲー、グラビア、萌えアニメなどがたくさんあるから、性の解放が進んでいると見ることもできる。
しかし一方で、日本は長らく父権的な女性差別社会を続けてきたこともまた事実だ。女性参政権付与もヨーロッパより遥かに遅い。女性を抑圧するということは、男性の暴力性を助長することであり、それが今回のような性加害問題を発生させたとも言える。
安易な抑圧・暴力を用いるのではなく、対話を通じて平和的な社会を作るような努力が必要だろう。


6.おわりに

性問題の難しさは、(権力による)規制の難しさに集約される。
かつてのヴィクトリア時代のように、性を抑圧しすぎると裏で売春やポルノが氾濫することになりかねないし、解放しすぎると風紀が乱れる可能性がある。極端な政策は取れない。だから、市民の良心に任せざるを得ない側面があるのだ。市民の良心を守るには基本的には多様性を尊重しつつ、行き過ぎた場合に規制をかけるなどの配慮が必要だろう。
また、市民も過激なものに耽溺しないよう、自己管理することが求められる。
「悪いことは悪い」と言えなければならない。今回の性加害は、その暴力の野蛮さもそうだが、それに物言わず沈黙したメディアの姿勢も厳しく批判された。
「黒いものでも(権力で)白くさせる」社会が変わらない限り、不幸は続くだろう。悪いことをしている者には手を貸さない。そうした市民の意識が高まるにつれ、性暴力は次第に力を弱めていくだろう。
これからの我々の行動にかかっている。
できることから、始めよう。

ご精読ありがとうございました。

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