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少年時代の「純粋性」について~なぜ人は大人になると純粋性を失うのか。そしてそれを取り戻すためにギャルゲーが果たす社会的役割とは~


0.はじめに

突然だが、皆さんの人生の「全盛期」はいつだろうか。人によって違うだろうし、「まだまだこれから」とか「今、この瞬間が常に全盛期」という人もいるだろう。
ちなみに私の場合は小学校6年生が人生のピーク(「黄金期」と読んでいる)で、その後は一度としてこの時代を超えることができず、今日に至っている。小学生時代が全盛期というと、「哀れだな」という声も聞こえてきそうだが、同じく小学生時代が全盛期、つまり「中学以降が小学校の下位互換」でしかなかった、という人も一定数いると思う(絶対いるはず)。
今回の記事では、なぜ、環境が違うのにそういった共通経験が起こるのか、そして人はなぜ純粋さを失っていくのかについて自分なりに考えてまとめる。そして、ギャルゲーがその純粋さを取り戻すための装置として機能しているのではないか、という自説を披露したい。

それで、以前「ギャルゲーとは何か」という記事を書いたのだが、その記事も多少参考になるかもしれないので、読んでない方で理解に必要だと思う人は読んでほしい(必須ではない)。
「恋愛」や「性的欲望」といったワードも使いながら説明していくが、これは決してエロトークをするためではなく、ひとつの説を紹介するための補足として使う。
全体的に私の主観がかなり含まれるので、あまり構えずに読んでいただければ嬉しい限りだ(まあ、私の記事はどれも主観全開で書いている気がするが)。それと分量がかなり多くなるので、ご承知おき願いたい。

1.純粋さを喪失する元凶

(1)純粋性の定義

最初に「純粋性」の定義を簡単にしたい。端的に言ってしまえば、「余計な欲や知恵を持っていない状態、つまり『何者にも染まっていない状態』」ということだ。これはJ.J.ルソーの野生人の「自然状態」と近いのかもしれない。ともかく、純粋性をこのように定義した場合、この性質を有するのは乳幼児とせいぜい少年期の人間だけであり、青年期以降の人間がこれを保持することはできない。そして、人が純粋性を失う理由についての回答は「経験によって白紙状態から脱却してしまったから」となる。
おそらく、このような説明により、筆者と読者の間で大筋の共通理解はできると思われる。
要するに、子どもは経験がないゆえに余計な欲を持たず、したがって純粋だが、大人になるにつれ知識や経験が増え、それがために欲望を増幅させ、汚れていく…。という話だ。これに大きな異論はないと思う。
だが、問題は、「いかにしてその純粋性が奪われるのか」すなわち「純粋性を失わせてしまうほどの知識・経験とは何なのか、そしてそれはどのような過程で我々を蝕むのか」という問いである。
この問いに答えることが、本章のテーマである。

(2)2つの禁断の果実

結論から申し上げる。我々が純粋性を失う原因は2つだ。
1つは個性の発現であり、もう一つは第二次性徴、平たく言えば「性の目覚め」だ。

順に解説しよう。まず個性の発現だが、これは乳幼児、とくに新生児を見ればよくわかる。ご存知の通り、人間は生まれた時点で見た目には大きな差はない。もちろん細かい違いは探せばいくらでも出でくる。問題は、この時点で「パっと見て誰でもわかるレベルの相違点」があるかということである。その答えは否、であろう。新生児は(見た目では)男女の区別すらはっきりしないほど個性を持たない。
そこから身体が発達すると、男女の性差や得意・不得意といった違いが現れ、個体差も大きくなる。そして言語を修得し、幼稚園や小学校などのコミュニティに所属することになる。そして個性はどんどん大きくなる。

小学校入学時点で各人に個性が現れ、個体差は充分識別できるようになるが、この時点では青年期以降のような「極端な個性の発現」はあまり見られない。これが何をもたらすか。「ある程度の平和状態」である。
たしかに、小さい子ども同士の喧嘩は普通に起きる。しかし、この時点での子どもたちは青年期以降のような露骨な個性を持たず、ある程度和合し、調和する。各人の個別の経験値の差が大きくないので、共通言語(意識)の範囲が広く、分裂しないのだ。私達が少年時代の思い出を、失われた楽園のような麗しき思い出として回想しがちなのにはここに原因がある。
少年時代の思い出が美しいのは、見るものすべてが新鮮で美しかったから、という理由も大きいが、後に味わうことになる悲劇的経験の量が圧倒的に少なかったから、という理由も大きい。

(3)分岐点

そうやってしばらく平和状態を維持したまま成長していくが、後に重要な分岐点にぶつかる。それが思春期である(ちなみに筆者はこの言葉に卑猥な響きを感じるので好まない。以後は第二次性徴期と言い換える。こちらには卑猥さを感じない。あくまで個人の感じ方にすぎないが)。
いわゆる第二次性徴期は性機能の発達や性欲の増幅、あるいはアイデンティティの確立といった問題にぶつかりはじめる時期だ。これは倫理や保健体育の授業で習った人がほとんどだと思うので、「ああ、あれね」と納得いただける領域だろう。
教科書的には、この時期は11~17歳くらいで、前期と後期に分かれるようだ。この「性」の目覚めと毎年蓄積されてきた「個性」メーターにより、このころから個人は集団から分裂し、幼少期ほど和合することはできなくなる。なぜなら個人がその個性を発現させればさせるほど、他者との違いを意識せざるを得ず、それによって分裂を助長させるからだ。

しかし、だからといってこの第二次性徴期をもって直ちに平和状態が崩壊し、緊張状態を生じるというわけではない。前期においては環境次第である程度平和状態を維持することができるからだ。この環境というのは実に個人差・地域差が大きい。筆者はたまたま第二次性徴期前期の12歳(小6)を輝かしい時代として送ることができたので、恵まれていたといえるだろう。私個人の経験を書くと長くなるので、後で参考例として紹介する。

(4)覆水盆に帰らず

筆者の人生においては、第二次性徴による精神の危機(コミュニティの分裂=個人主義)が訪れる小学校最終学年を、たまたま運良く乗り切ることができた。しかし、中学校へ進学すると状況が変わってしまう。中学校で何が起きるかというと、あまりに露骨な「男女の区別」である。

典型例が制服と出席番号である。小学校までは基本的に私服の所が多いと思うが、中学校では制服として、男子には学ラン、女子にはセーラー服(学校によって多少違うが)が着せられる。これにより、学ラン=男、セーラー服=女というふうに、見た目にもはっきり分かる形で男女が区別される。つまり、中学校では各人が自分を「男か女か」意識させられるということになる。そして、出席番号に関してだが、小学校までは男女一緒に番号が振られていたはずだ(もちろん、学校による違いはあるかもしれない)。しかし、中学校では男子と女子の出席番号は別に割り当てられる。もっというと、進学・進級時の最初の席配置も違う。
たとえば、筆者が小学校入学時の最初の席順は、背の順で2人並びの席で、右が男子、左が女子、という配置だった。
けれども、中学校以降はまず教室右側に男子、左側に女子、という形で初期配置がなされる(ともに出席番号順)。
これによって、男子と女子は二重の意味で、つまり、服装と配置という2つの側面から区別され、引き離される。たしかに、その後席替えで配置は男女混合になるが、こうした区別措置によって男女はそれぞれ相手との「差」を意識せざるを得ず、またどこか心理的に遠く感じられるようになってしまう。これは善し悪しの問題ではなく、そういう傾向があるのではないかという筆者の推測に過ぎないが。

だから、小学校までは平気だったのに、中学以降孤独感を覚えるようになった人がいるとしたら、その原因のひとつはここにあるかもしれない。これまで服装的にも配置的にも露骨な区分がなく、緩やかに、平和的に和合していた男の子と女の子が人為的な処置によって男と女に区別され、分裂させられてしまったのだから、一種の不安を覚えても無理はない。もちろん、中学生の時点でこのような分析はできないだろうから、その不安の正体がはっきりとはわからなかっただろうが、こうした考察を加えることにより、その正体に多少迫ることができる、というわけだ。

(5)恋愛の時代(完全なる分裂へ)

しかし、なんとか保たれていた平和状態も、最後の一撃によって打ち砕かれる。それが「恋愛」という「システム」である。そして、それが本格化するのが(地域によって差はあると思うけれども)中学2年生である。
「中二病」という言葉があるが、これは中学2年生の本質を言い当てた言葉だと思う。なぜ、「中一病」や「中三病」ではないのか?それは中学2年生というのが過渡期、いうなれば分岐点の真っ最中なのに対し、中1と中3はそれぞれモラトリアム、分岐後の新世界に相当するからだ。つまり、中2というのは精神的に不安定になりやすい時期だということである。

これも筆者の例になってしまい恐縮だが、筆者は自身の中学1年生時代を「小学校7年生」と形容している。これはどういうことかというと、たしかに中学入学による環境変化、第二次性徴により、小学校時代の平和は崩れつつあった。が、それでも中学1年目はまだ「小学校の延長」という色彩が残っていたために、精神の危機までは至らなかった、ということである。
しかし、筆者は自身の中学2年生時代を「小学校8年生」とは形容しない。それはなぜかというと、中2はもはや小学校の延長ではなく、完全なる中学生になってしまったからである。
その証拠として、中2になるとやたら「好きな人」とか「性」の話をする人が増え、しかもそれを「羞恥心を伴わずに堂々と」するようになってきた、ということが挙げられる。こういった話自体は早熟な人であれば小学時代からしていたかもしれない。しかし、それはあくまで少数派であり、それゆえにおおっぴらに話すことはできず、どこか羞恥心を伴ってアングラ的にしかできなかったはずだ。

けれども、第二次性徴を迎え、性欲を増幅させてしまった後はそうした話を平気でするようになってしまう。だから、たとえばみんなで一緒に野球やゲームをしているときでも、「あの子かわいいよな」とか「好きな人いる?」とかいう話題が発生しやすくなる。挙句の果てには携帯を使って恋人あるいは好きな人にメールをする輩まで出てきたりする。
これが何をもたらすか。コミュニティの分裂だ。せっかくみんなで集まった(友愛に依る結合)のに、誰かがその場にいない誰かの話をする、またはその人と連絡を取る(性愛による結合)ことになれば、当然その場は味気なく、つまらないものになる。なぜなら、遊びというのは集中して行わなければちっとも楽しくないのに、そんな話や連絡をしていれば集中できるはずがないからである。

ちなみに筆者の地域では、中2から携帯電話を持つ人が増えた(筆者は携帯を嫌っていたので大学まで持たなかったが)。この携帯所持が第二次性徴による性欲増幅と肩を組むことで、友愛のコミュニティが崩れ、各人が性愛のコミュニティに引きこもっていってしまうことになった。というのも、性愛の快楽はまだ未知の領域ゆえに好奇の対象となり、しかもその快楽は友愛のそれよりもはるかに強いことを経験として知ってしまうからである。
だから、筆者は小学校時代はみんなと遊ぶのが楽しかったのに、中学以降、とくに中2以降は少しずつ楽しさを感じなくなっていった。それはそのはずだ。せっかく遊んでいるのに携帯ばかりいじられては興ざめするのも至極、当然であろう。

これが中1であればまだそういう話が少なかったり、携帯所持者が少なかったりするおかげで、かろうじて共通言語を有するコミュニティを維持できた。しかし、中2になれば好き放題で、もはやそこには共通言語(この場合はみんなで集まった時間を集中して楽しく遊ぶこと)などなく、各人のエゴイズム(「あの子と仲良くなりたい」)のみが残る。
これに関しては旧友と久々に再会したのに、お互いスマホをいじってばかりだった、という経験をお持ちの方もいるだろうから、共感する人もいると思う。

ちなみに、中3は中2のさらに先だから、より状況が悪化したのでは?と思う方もいるかもしれないが、少なくとも筆者の場合はそうでない。というのも、この頃になると、すでにコミュニティの崩壊を既成事実として認めざるを得ず、新しい枠組み、すなわち孤独を深めることにシフトしていたからである。
また、そもそも中3は受験・卒業によってコミュニティが解体する時期でもあるから、わざわざボロボロになったコミュニティを維持する動機がないわけだ。
そういう意味で、中学校3年間で最も苦しかっのは過渡期である中2だった。この時期は「対処法を知らない状態で」挫折に直面する時期であり、それがため苦悩もいっそう大きくなる。中1は苦悩の程度が弱いし、中3はすでに対処法に気づき始めている時期だから、中2ほどの深刻さはない。だから、中2病はあっても中1と中3のそれはないのである。

(6)まとめ

かくして、個性が乏しいゆえに和合・調和し、平和な日常を送っていた少年時代は、個性の発現第二次性徴という嵐によってその平和性を脅かされることになった。
そして、この後各人は2つの道のうち、どちらかを選ぶことになる。1つは、第二次性徴以後の枠組みを受け入れる道、もう一つは第二次性徴以後の枠組みを拒絶し、それ以前に回帰、あるいは第3の方法を探す道である。端的に言ってしまえば、前者が恋愛・結婚・出産に活路を見出すのに対し、後者はそれ以外の方法を模索する、という違いである。
これは次章以降で話す「性」問題、すなわち恋愛・結婚・出産、あるいはギャルゲーの役割などに関わってくる。次章で詳しく話すことにしよう。


2.少子化問題と恋愛問題について

(1)概要

前章では、第二次性徴によって少年時代のコミュニティが解体されることを示し、それを受け入れるか否かで道が分かれる、という話をした。受け入れた人、つまり、恋愛・結婚・出産という道を選んだ人は一応社会に適応することができるが、受け入れなかった人は様々な苦悩に直面することになる。それは差別や偏見という形を取ることもあるし、少年時代への回帰願望として現れることもある。いずれにせよ苦悩は避けがたいが、そういった問題を、昨今の日本で語られる「少子化問題」と絡めながら考察していきたい。なお、少子化については以前の記事で多少語っているので、興味のある方は読んでいただけると幸いである。

(2)問題の所在

さて、少子化が叫ばれるようになって久しい。少子化自体は複雑多岐な原因を経由して発生するため、原因の特定は難しい。ただ、出生数が下がっているのは事実のようだ。
少子化問題が議論されるとき、独身者や恋愛経験のない者が槍玉に挙げられることがある。つまり、
「独身者は自分のことしか考えず、社会のことを考えていない」
「子どもを産むのに経済的不安があるというが、案外なんとかなるもの。リスクばかり考えず行動しろ」
といったお説教を食らうことがある。
賢明な読者諸兄であれば、こうしたお説教が時代錯誤に満ちた老害的偏見であることは一目瞭然だろう。ただ、第二次性徴以後の枠組み(恋愛・結婚・出産)を肯定できない人にとっては、こうした批判に対してしっかりと答えられるようにしておかなければならない。その際は既存の恋愛・結婚・出産が抱える問題点を明らかにしていくことが大切となる。

(3)恋愛の問題点

メディアでは恋愛を、基本的に美しいものとして描く傾向がある。つまり、辛いこと、喧嘩することもあるけれど、それを乗り越えた先には素晴らしい日々が待っている、といったお決まりの物語を用意し、それを提供する。
だが、そうした物語は第二次性徴以後の枠組みを拒絶する者(以後、少年主義者と呼ぼう)にとっては欺瞞に満ちたものにしか映らないであろう。
ここでは、恋愛というものが根本的に抱える致命的な欠点を分析する。

単刀直入に言おう。恋愛の問題点はその「傲慢性」「残酷性」にある。比較対象として、友情(友愛)を挙げる。恋愛と友情の違いとは何か?それは排他性を伴うかどうかである。
友情は複数の相手と成立するが、恋愛は特定の相手としか成立しない(一夫一婦)。つまり、恋愛は、成立した時点で他の可能性を完全に遮断する、という特徴がある。
夏目漱石の『こころ』という小説がある。教科書にも載っているのでご存知の方も多いだろう。この小説では、「お嬢さん」という女性を巡って、「先生」と「K」が対抗関係になってしまうという話であり、「先生」の「K」への仕打ちに不快さを感じた人も多いだろう。私もその一人だ。
ただ、道徳感情を抜きにして、単に恋愛(結婚)相手の獲得競争に勝つ、という側面から見た場合、「先生」の仕打ちは合理的なものとなる。なぜなら、恋愛(結婚)の相手は1人しか成立しない関係上、相手より先を越さなければならないからである。

したがって、恋愛(結婚)感情を満たそうとした時点で、誰かとの争いになることは本質に避けられず、必ず負けて傷つく者、敗者が出てくるということである。
こう書くと、「自分は正当な手続きを経て結婚した。寝取ったわけでもなければ、不義の恋でもない。自分の恋愛に傲慢性などない。」と反論する方がいるかもしれない。
だが、ここで問題にしているのはそうした「手続きの正当性」ではなく、「恋愛(結婚)関係によって必然的に発生する」傲慢性・残酷性のことである。

この点に関する典型例がゲーテの『若きウェルテルの悩み』に描かれている。本作ではすでに婚約者のいる女性に恋してしまった青年の苦悩が描かれているが、これは恋愛・結婚というシステムが生み出す不可避的な悲劇といえよう。つまり、結局の所早い者勝ちであり、後から来た者に勝ち目はない、ということである。先に婚約を果たしたロッテとアルベルトには他者への害意はないが、現実的には、2人が結婚するということは、それ以外の組み合わせが許されないことを対外的に示すことになり、ロッテと懇意になりたいウェルテルが苦しむ原因となってしまう。悪意がなかろうが、正当な方法だろうが、他者の可能性を潰してしまうという傲慢性・残酷性が内包されているのだ。

※配偶者の悪口を堂々と口にする人が多いが、そういう人は「自分が結婚したことでその相手との結婚を諦めざるをえなくなった人たち」の気持ちをぜひ想像してみてほしい。そんな人いるわけない、と思うかもしれないが、人間は案外他人の気持ちには鈍感なものである。そういう人を前にしても悪口をまくし立てることは、果たしてできるだろうか?

しかも、たちの悪いことに、このケースでウェルテルがロッテとの結婚を望む場合、二人の破局を待つしかない。なぜなら、結婚相手は1人であり、排他性があるからだ。自分の願望を成就させるためには、相手の不幸を願わなければならない、という非常に根深い問題がここにある。
少年時代にはこうした傲慢さを伴う競合は生じない。少年世界の根本原理は性愛(排他)ではなく、友愛(受容)だからである。
筆者は17歳のとき、この残酷な事実を認識した。その結果、恋愛(結婚)という枠組みを人生で受け入れることはもはやできなくなった。結局はゼロサムゲームでしかないことを悟ったからである。
ただ、悟ったとはいっても、それで性エネルギーが雲散霧消するという話ではない。解消されないまま、残り続ける。これは、恋愛という枠組みを受け入れようとしたが、失敗・挫折して行きどころがなくなっている人にとっても同様である。
こうした人の性エネルギーを昇華させる場所はないか?
そう考えて生み出されたのかは不明だが、奇しくもギャルゲーの誕生がこの問題への1つの解決策となった。次章では、ギャルゲーの役割について見ていこう。

3.ギャルゲーの社会的役割について

(1)ギャルゲーは「恋愛ゲーム」ではない

ギャルゲーというと「恋愛シミュレーション(アドベンチャー)ゲーム」という認識が一般的かもしれない。しかし、筆者の見解は異なる。
ギャルゲーは「恋愛のような何かを疑似体験できるゲーム」である。何が違うんだと突っ込まれそうだが、ギャルゲーにおける恋愛(のようなもの)は現実の恋愛とは根本的に違う。現実の恋愛は本質的にはシミュレーション不可能である。だから、ギャルゲーで描かれているのは「恋愛のような何か」ではあっても「恋愛そのもの」ではないのだ。
では、両者の違いは何か。また、どうしてそのような違いが生じるのか。メタ的に言えば、以前の記事で書いたように、現実は複雑(入力と出力の不一致)、ゲームは単純(入力と出力の一致)であり、その違いはゲームの快適性を担保するために生じる、ということになる。だが、ここではさらに深堀りしよう。

先述したように、現実の恋愛は傲慢性・残酷性を伴う。では、ギャルゲーにおける恋愛(のようなもの)にそうした要素はあるだろうか。本質的には、そうした要素は捨象されている。なぜか。ギャルゲーにおいては競合相手が存在しないからである。言うなれば、平和な世界なのだ。
『こころ』の例で出したように、そもそも恋愛が傲慢性・残酷性を帯びるのは競合相手が存在するからである。1人の女性に対し、男性2人以上(またはその逆)という関係が成立したとき、座れる椅子は1つしかない。したがって、競合関係が生じる。

しかし、ギャルゲーにおいては主人公の競合相手は基本的に存在しない。主人公の親友は現実なら恋のライバルになりうるが、ゲーム内ではサポートに徹してくれる。また、ヒロインの攻略に必要なのは一定量の好感度、またはフラグ立てであり、これらが達成されたかどうかがクリアの条件となる。
しかし、現実の恋愛はそう甘くはない。ライバルが現れ、先を越されるというリスクがある。こうしたリスクはゲームでは発生しない。ヒロインと仲良くなれたかどうかのみが問題にされ、誰かに先を越されることはない。フラグを折ってしまうなどのミスをしない限り、ヒロインはゲーム終了まで、主人公を待っていてくれる、というわけだ。

こうした理由から、ギャルゲーは「恋愛(そのもの)を疑似体験するゲーム」というより、「恋愛(のような何か)を疑似体験することで、何かを得るゲーム」といったほうが、より正確な表現になると筆者は考えている。

(2)少年時代への回帰という側面

では、ギャルゲーを遊ぶことで具体的に何が得られるのか。それは「少年時代の純粋さを思い出すきっかけ」だと思う。
ギャルゲーを遊んでいて疑問に思うのが、「主人公はなぜモテるのか」という点だ。たしかに、主人公がイケメンだったり、性格が良かったりすることはある。しかし、大抵の主人公は特徴がない平凡な設定であることが多い。そんな状態で複数人の女の子に好かれるというのは、あまりにも非現実的ではないか?という疑問、批判が考えられよう。
その答えは、ここまで注意深く記事を読んでくれた方ならわかるかもしれない。それは、ギャルゲーは「(現実を模した)疑似恋愛ゲーム」ではなく、「(過去あるいは理想を映像化した)恋愛のような何かを疑似体験するゲーム」だからである。

現実的に考えれば、複数人から好感を持たれる場合、高いスペックが必要だろう。それは容姿、センス、資産、人脈など様々あろうが、少なくとも平凡でモテるというのは考えにくい。平凡な場合、誰か1人2人から好かれることはあっても、複数人にモテることはないだろう。したがって、主人公の設定は現実的ではないのだ。
だが、人生を思い返してみてほしい。実は複数の女の子と仲良し(厳密には緩やかな和合なのだが)だった時代がある。それが幼少期だ。
もちろん、幼少期においてもモテるかどうかは個人差がある。しかし、幼少期は個性が発現されていないために、各人は和合しやすく、ある程度までは仲良くなれる。
たとえば、私の場合。小1時代、放課後クラスの女の子と下校することがあった。これは別に私がモテたわけでも、コミュ力が高かったわけでもない。単に下校時間が同じになったからとか、そういう理由だろう。少年時代というのはこうした理由で簡単につながることができる。

ところが、第二次性徴以降はそうはいかない。恥ずかしさを覚えて誘いづらい、ということも起きてしまう。「ときメモ」の藤崎詩織が「一緒に下校して噂されると恥ずかしいし…。」と言う場面があるが、まさに典型例だろう。もともと詩織と主人公は幼馴染で、したがって一緒に下校していたはずだが、性の目覚め、他者のまなざしから来る羞恥心などが気になるようになってしまい、それができなくなってしまった、というわけだ。つまり、第二次性徴以降の男女が一緒に下校するためには、何らかの理由が必要となる、ということである(実際には必要ないのだが、本人たちの自意識がそれを要求してしまう)。

しかし、幼少期の少年少女にそんな羞恥心はない。彼らは同級生と下校することに何の恥じらいもない。つまり、彼らは「恋愛(感情)という枠組みを通さずに」異性と交流できる、という能力を持っているのだ。そして、この能力は第二次性徴以後のほとんどの人々から失われてしまう。

おわかりいただけただろうか。
そう、ギャルゲーの主人公がなぜ様々な女の子と親しくできるのか?その答えは、主人公やヒロインの性格、ゲーム内の環境が第二次性徴期の殺伐としたものではなく、少年時代の牧歌的で平和なものとして設定されているからである。したがって、そこで展開される人間ドラマも必然的に友愛的となり、『こころ』や『ウェルテル』のような悲劇的恋愛は展開されにくい(作品にもよるが…)。
そういう意味ではギャルゲーは恋愛(のような何か)要素の入った『ぼくのなつやすみ』という立ち位置だと筆者は理解している。

(3)恋愛(結婚)主義、性差別へのアンチテーゼとしての側面

漫画家の山田玲司氏は2007年を「日本人が繁殖を諦めた年」だと評している。同年はまず『不都合な真実』で地球温暖化への警鐘が鳴らされ、音楽ソフト『初音ミク』が誕生した年だ。

※この初音ミクというのは、実に人間的な作品だといえる。たとえば、人類以外の生き物のうち、知能が発達したいくつかの類人猿が、自分たちの種族を模した「ギャルゲー」のような何かを開発することは、万に一つあるかもしれない。しかし、初音ミクのように、そもそもただの音声ソフトでしかないものに「キャラ」という属性を付与し、それに「萌える」ことはできないだろう。
これは良くも悪くも人間の「想像力」による産物だから。

まあ、要するに、人類が文明を発展させ、大量のエネルギーを消費するようになった結果、地球が持続不可能なものになりつつある、というわけだが、ヴァーチャルなアイドルに「萌える」ことで少子化が進行、人口減でエネルギー問題を間接的に解決、といった見方だろう。
もちろん、実際には人口減少=消費エネルギー減少という単純な図式にはならないだろうが、人口増加=エネルギー増加というのは間違いないので、それに対する答えが出た、というところか。

山田氏の見方には「ギャルゲー(または萌えコンテンツ)が少子化を促進した」がベースにある。私はこの考え方を継承しつつ、さらに論を深めたい。それは、ギャルゲーが、恋愛(結婚)主義や性差別へのアンチテーゼとして機能しているのではないか、という説だ。

ギャルゲーに限った話ではないが、ヴァーチャル空間に入っている人を批判する声は当然ある。「現実逃避だ」というわけだ。それは事実なのだが、では果たして現実空間にはしっかりと向き合う価値があるのか?という問いがここで提起される。これにはどう答えるか。
結論から言うと、もはや現実に価値はないと絶望し、安息の地はヴァーチャル空間にしかない、というのが本音なのではないか(もちろん、現実も不要というわけではないが)。

60年代の「政治の季節」以降、政治・社会を何とかしようというより、各人がコミュニティに引きこもり、政治への関心が薄れたように思える。投票率も下がる一方だし、先述したように少子化は進んでいる。
それで、これじゃあまずいということでいろいろ対策されているわけだが、あまり効果はないように感じる。
というか、筆者には昨今の少子化は一種の自動調整機能として映るため、解決しようとしたところでどうしようもないものに見えるのだ。
たとえば、昨今の論調は少子化問題を深刻に取り上げるせいで、高度成長期の経済発展とそれに伴う人口増加が美談として語られがちだが、あの時代は別にバラ色というわけではなく、多くの問題も抱えていた。公害問題なんかはその典型だし、独身者は出世させないとかいう差別も平然と行われていたと聞く。

そもそも無限に経済成長することは無理だし、人口が増え続けることはありえない。増え続ければ資源が不足し、地球とともに滅亡するだけだ。
よって、筆者は今の少子化次代を前代の高度成長期の問題を解決するためのモラトリアムとして見ている。つまり、「あの時代は本当に正しかったのか?」と振り返る時期が「今」だということである。

たとえば、人口の再生産は、これまで男女の婚姻→生殖という形で行われてきた。近代に入るとこれに「恋愛」が介入し、恋愛→婚姻→生殖となる。「恋愛」の介入によって、強制結婚という(現代から見た場合)人権侵害を淘汰し、その代わりに市場競争が持ち込まれ、結婚が難しくなった。また、核家族化により、嫁姑問題を強引に解決する家庭も現れた。それはそれで構わないが、育児の負担が夫婦に集中し、教育コストの上昇によって子育ては難しくなった。
このように価値観や制度は時代によってアップデートされ、改善されたり、新たな問題が噴出して現在に至っている。

そして、これまでのこうした枠組みが、現代社会にも通用するかは大いに疑問が残る。たとえば、子育ては産みの親がするものだと(現代では)考えられているが、それは本当に妥当か。出産と育児の分離はできないのか。また、毎年悲惨な児童虐待が起きるが、そもそも現行のシステムでは親が子どもに暴力を振るうことを止められない。親という立場が独占的で、競争性がないゆえに、ひどい親でも淘汰されず、のさばってしまうという問題がある。
子どもを社会で育てる、という視点が必要なのではないか…等等。

こうした問題に、ギャルゲーから何かアプローチできないか。
現実の恋愛をせず、ヴァーチャル空間での疑似恋愛をしている人が、必ずしも育児を嫌うというわけではない。子どもは好きだし育ててみたいが、コストがかかりすぎるし、不安も大きい。恋愛も興味がないわけではないが、コスパが悪く感じ、尻込みしてしまう。だからやらない。そういう人がいるかもしれない。
それで、こういう人がいたときに、この人を無理やり現実空間に引っ張ってきて恋愛や育児をさせても、上手くいくとは思えない(もちろん、個人差はあるだろうけど)。
だからこういう場合、この人がギャルゲーを遊ぶことは認めつつ、待機児童の預かり、それも難しいのであれば30分遊んであげるのでも良いが、何かしら人口の再生産、次世代育成に参画させることができないか、というアプローチをかけてみるのはどうだろうか。
そうすれば、この人に過度な負担をかけずに、自由を尊重した状態で少子化問題解決の一翼を担ってもらうことができる。
つまり、恋愛(ギャルゲー:virtual)と育児(一部現実:real)の分離である。実際問題、ここまで育児のコストが上がってしまった現在、夫婦2人に育児を任せきるのは現実的ではないし、危険でもある。だから、こうした形で協力者を募っていく、というわけだ。

こうしたアプローチは、伝統的な共同体では機能しない。そうした社会では「現実逃避なんかせずにさっさと嫁探せ」で一蹴されて終わりだろう。だから、ギャルゲーを用いてこうした保守主義を解体し、新たな価値を生み出す。「嫁は二次元、子どもは三次元」というわけだ。なお、反対に恋愛は現実でしっかり楽しみたいが、育児はまっぴらごめんだ、という人がいるかもしれない。その場合は『プリンセスメーカー』を使って「嫁は三次元、子どもは二次元」ということになろう。

こうした思考実験はバカげたものに映るかもしれない。筆者も半分本気で、半分冗談ではある。しかし、伝統的な恋愛・結婚・育児の枠組みでは、おそらく今後無理が生じる場面は必ず出てくるはずだ。そのときに、問題解決のための一つのヒントとして活用できるのではないか、僭越ながらそう思っている。
たとえば、男性の育児休暇取得率が低いことがしばしば問題にされる。実際、育児は夫婦のどちらが主体になっても構わないはずだが、ジェンダー的な価値観が邪魔しているのか、休暇取得はまだまだ後進的らしい。こうした性差別的な障壁も、ギャルゲーの理解が進むにつれ、取り除かれていくことになれば望ましい。
少子化問題というと支援金など、金銭面でのサポートが主流な気がするが、こうしたアプローチも面白い。最も、実行するには社会のパラダイム・シフトが必要だ。筆者が生きているうちに実現することは難しいかもしれない。もちろん、方法はこれに限らないが、様々な方法が考案されることを期待したい。

4.おわりに

かなりの大長編になってしまった。ここらでまとめよう。

(1)少年時代は経験のなさゆえに純粋で、平和的だが、年齢を経るに従い、経験や個性が邪魔をして平和が失われていく
(2)恋愛・結婚には危険な要素が含まれており、何らかの形でコントロールしないと個人や社会に弊害が出てしまう
(3)ギャルゲーは恋愛の再現ではなく、少年時代の再現であり、作中には人の温かさ、平和な世界がある。そうした世界に触れることは、少年時代に忘れてしまった純粋さを思い出す効果があり、それを現実世界で有効活用できる可能性が、将来的にあるかもしれない
(4)少子化問題へのアプローチはもっと多面的にすべきであり、その際には性差別的な価値観を拭い去っていく必要がある。ギャルゲーの牧歌的世界観をヒントに、平和的な解決方法を探ろう

少子化問題というと、税収や労働力減少への懸念という側面が強調されると思うが、私は社会から「純粋な者」の絶対数が減ってしまうことへの懸念という側面もお伝えしたい。大人と子どもの違いとは何か。
私が思うに、大人の考えは合理的、経済的で、子どもは感覚的、直感的という違いがあるように思う。子どもはなりたい職業を将来の夢だと言う。自分が実際になれるかどうかは考えない。これに対し、大人は自分の実力を知ってしまっているので、実現できるかどうか、考えてから結論を出す。
ここに両者の違いがある。どちらも大切な考え方だが、昨今の社会政策を見ていると、ここでいう「大人側」の価値観が幅を利かせすぎているように思える。そうした価値観の修正のためにも、我々が純粋さを取り戻すことは重要であり、その一翼をギャルゲーが担ってくれることを期待する。

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