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踵は標準器

脚を傷めてよくよく判ったのが踵の大切さということ。

踵の真ん中が膝裏やつま先に合っていない状況で、長年だましだまし動かしていたので鼠径部が外側に引っ張られ、激痛が走り歩くのも嫌になった。

修験者がこんなことで何としようか、と無理をして山歩きを再開すると却って痛みが増してしまう。
これはアイデンティティにも関わる事だったので、垂れ流しにしないで秘めていたが、なかなかに辛いものだった。

ここのところ旧知の友人より良い整体を受け、また頑固を辞めて妻にも頭を下げて毎日施術してもらい、少なからず腑に落ちる所が有った。

その考えが「踵は標準器」ということ。そのイメージに基づいて踵を自己調整すると、サーッと痛みが引いて爽快感が体を満たした。

その繫がりを失わないように、ゆっくり、できるだけ繊細に動いてみる……と、なんと2年にわたり私を苦しめた足腰の不調が(もちろんまだ各部は痛いが)根本的なところは解決されたような感覚を得ることが出来、嬉しかった。

私は身体のプロとして、また忍術を含む兵法の伝技者として、身体をテーマに当に身体を張ってやってきたが、その間には数知れない程の「無理」をしてきた。
人様の身体との「対話」は数限りなく熟していたが、自分自身の身体、それもその根本を支える足腰との対話が足りなかったと痛感した。

思えば祖母も法印も、八卦掌の師父も柔術の師匠も、忍術の師匠も、みな高齢にも関わらずきれいな均整の取れた身体をされていた。特に皆さん足が素直で綺麗だった。

祖母は「兄ちゃん、踵がきれいな人は、小股が切れあがってるって言って昔はモテたんだよ。だからそんなダラダラと歩くんじゃねえよ。もっとピンと伸びた草みてえに歩くんだよ……」と話しながら、散歩中に歩みの至極を伝えてくれていた………のかもしれない。
(ただ単におばあちゃんはモテてしょうがなかったという自慢のような気もする(笑))

また法印からは「お前は音はしねえが足跡が汚え」と、事あるごとに言われ続けていた。

八卦の師からは「我武者羅に歩くのも大切だが、先ずは両の足で立つとは如何なる事か、手探りしながら稽古しなさい。」の旨を聞いていた。

ああ、確かにツケが回ってきたなあ……言われた所をなおざりにせず、もっと真に受けてものにしておけばなあ………と後悔しても仕方ないので「今日もここから」で気を取り直してやっていきたい。

自分を知るから「毅(つよ)い」。
整うがゆえに「勁(つよ)い」。

今更ながらに師匠達のつよさの秘密を知った思いがした。これからが面白くなると確信している。

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