たった一行、本を読む
本を読み通すのが苦手だ。精読するのも苦手だ。
「読み始めたからには、最後までしっかり読まなければ」などという考えが頭を過ぎると、途端に本を読むことが息苦しく感じられてしまうからだ。
けれども、本が好きだ。本屋が、図書館が大好きだ。本好きの人には怒られてしまうかもしれないが(この考えがまた私を息苦しくするわけだが……そして恐らく、そんな本好きの人は実際には存在しないわけだが……)私は本に囲まれて暮らすのが、いつでも安心して本が手に取れる場所がある街に暮らすのが大好きだ。
そんな、通読も精読も苦手な私が、「本好き」を自称することを許せるようになったできごとがある。
当時、私はとにかく疲弊していた。終わらない仕事に追い立てられ、脳のリソースのほとんどが仕事に割かれていることに恐怖していた。ネットで話題の新刊や、最近読んで面白かったと友人が教えてくれた本……そういった気になる本の情報を横目で見ながら、どうせ本を読む余裕なんてないとイライラしていた。
「いつか」今より仕事が楽になった時のために買っておこうかな、そんな考えがちらりと浮かぶ。けれど、読めない本を買うことは余計に私を苦しめるような気がした。みんなは読めているのに(みんなって誰?)私は読めない。本の一冊も読む余裕のない人生って?買った本を読めずに一生を終えてしまったら?
買ってから、一度も手をつけられず増殖していく本のイメージが、脳内で氾濫する。読めないことが私を責め立て、絶望させ、ただでさえ打ちのめされた自己肯定感が地に落ちる。どうして、好きなはずの本によってこんなにも苦しんでいるのか、私には(きっと誰にも)分からなかった。
それでも、惰性のように、気になる本の情報を目で追ってしまう。この本だったら、あの書店に置いてそうだな……そんなことを考えながら、スマートフォンの画面をぼうっと眺めていたら、ふいに家族に声をかけられた。
「どしたん」
「いや、気になる本があるんだけど、買っても読める気がしなくて」
いかにも気落ちしたトーンで言う私を、家族は訝しげに見ている。何をそんなことで悩んでいるのかと言いたげな様子だ。
「買ったらええやん。そんで、最初の一行だけ読んだらええやん」
「え……」
「たった一行でも、読むのと読まんのとでは、見える世界も考え方も変わると思うで」
「……」
「ちなみに俺は、『読んでいない本について堂々と語る方法』のこと、読んでないのに堂々と語ったことあるで」
「……」
最後の一言については、せめて一行読んでから語りなよと思わずにはいられなかったが──私は、靄が晴れるように、急に視界が明るくなるのを感じた。本って……本って……そんなに自由に読んでもいいの⁉驚きに満ちた喜びに、嘘ではなく全身が震えた。
本は、どこから読んでもいいし、どんな風に読んでもいい。そんな当たり前の(否、その時の私には決して当たり前ではなかった)事実にたった今気が付いて、急速に肩の荷が下りるのを自覚した。通読や精読にこだわらなくても、本は買っていいし、読んでいい。なんなら読まなくてもいい。積読なんて言葉があるくらいだ。積読も本の楽しみ方に違いない。肩肘張って、修行僧のようにストイックに本に向かう必要など、実ははじめからなかったのだ。そんなしごく当たり前の事実が、家族の言葉をきっかけにしてストンと胸に落ちてきたのだった。
そうして翌日、私は仕事帰りにお気に入りの本屋に寄り、堂々と欲しかった本を買った。
もちろん、ゆっくりと腰を据えて最初から最後まで本が読めるのが一番だろう。一言一句を噛み締めるように、丁寧に読み進められるのがいいだろう。筆者も、きっと命を捧げて書いている。一字足りとも逃さず読んでほしいはずだ。そのことも、十二分に理解しているつもりだ。
それでも、私は読まないことより、たった一行でも読む方の人生を選びたい。
たった一行、本を読むことで、見える世界も考え方も、変わる可能性が秘められているのならば。まずは一行、本を読みたい。そう思って、今日も「気軽に」本を手に取っている。
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