見出し画像

映画の記録『私のはなし部落のはなし』

 同和教育というものが今はどうなっているのか、わかりません。僕は小学生の頃、部落についての授業がありました。地元のあそことあそこは部落なんです、というようなことを学んだんですが、子供ながらに「そんなこと教えられなかったら知らないままでいられて、知らなければ差別なんてすることもないのに」と思ったことを憶えています。

 京都に来て、京都の方と話していると、部落の話になることがあり、そういう話をよそものに聞かせる京都の人は、言い方は悪いですが、変にいきいきしていると感じることがあります。訳知り顔で得意気に、なんとなくイメージとしてはタバコを煙らせながら話すというような雰囲気があります。そんな人ばかりではありません。そういう人がけっこうおられ、そういう人は京都のなかでも比較的、部落から縁遠い場所で暮らしておられるようです。

 いまは、小学生の頃のように知らなければ差別なんてしない、などとは思いませんが、知るほどに簡単な問題ではなく、簡単に語ることはできないことだとわかり、怒りなのか、悔しさなのか、自分でもよくわからない感情に支配されてしまいます。そういう僕みたいな人間が観ると、観たところで何ら解決はしないんだけれども、観ることにより、いま、こうして何か発信しようという思いに駆られるという、この感情の生まれたこと、そのためにこの映画を観たのではないかと思うのです。

 部落出身であるという理由により、付き合っていた彼女の両親に結婚を反対された保育士の男は、数年後、その彼女の子を園で預かることになりました。その子について、何か含むところは何もない。しかし、時々、その子のお迎えに彼女の両親がやってくることがあり、「ああ、この人たちがオレが部落出身やから結婚を反対したのか」とは思ってしまう。それを笑いながら振り返る、その人に僕は泣いてしまった。

 ある若者は「人を変えるのは無理だから自分を変えるしかない」と言って差別を受け入れ、受け流すことを覚えたという。気にしなければそんなものはなんてことはないんだと。いっぼう、彼の友人は「それではいけない。差別する人たちにもわからせないといけない」と話す。部落の話ではないけれど、僕も「人を変えることはできない」ということについて、時折、死にたくなるくらい考えることがある。自分を変えるのは、自分を大切にするため、やむを得ない最終手段だったりする。

 全国の部落をネットで公表した男性は「僕がやったことは、部落を公表したことだけであって、その情報をどう使うかは使う人次第。差別に使った人が悪いだけで僕は悪くない」と言う。もっともなことを言っているようにも思うけど、そこには心が無いと思ってしまう。理屈を言えば、いくらでも言えるだろうし、屁理屈なんてものもあるけど、人と人との問題には、心が通っているべきだと思う。血が通っているべきだと思う。

 でも、血は血でそれも問題で、関西在住の60代の女性はインタビューに対して「部落の人間とうちの子が結婚するなんてあり得ない。それは血の問題や」と言っていた。その差別意識が悪いことだという自覚はあるようだった。その自覚を凌駕してしまう血への意識とは何なんだろうか。

『私のはなし部落のはなし』は京都シネマで上映中。

#映画  #映画の記録 #映画鑑賞
#ミニシアター  #京都シネマ
#私のはなし部落のはなし

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?