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8月3日の新聞1面のコラムたち

 涌井慎です。趣味は新聞1面のコラムを読むことです。読売新聞『編集手帳』には、きのう(つまり、おととい。ややこしくてごめんね)埼玉県熊谷市に、気温が41度に達するとの予報が出たと書いてありました。これまで2度観測された国内最高気温の41.1度を更新するのではないかと注目されましたが、そこには至りませんでした。暑いのは嫌だ嫌だと言っておきながら記録を更新するかもしれないとなれば、ややテンションが上がる感じが面白いですね。悪知恵の働く関係者がいたら、温度計に細工でもして41.3度とかに設定しそうな気もします。どうやら熊谷市には、そういう悪い人がいなくてよかったです。昨日は日中の京都市内、雨の降る前の西院あたりもだいぶ危ない炎天でした。熱中症とコロナ感染は症状が似ているらしいですね。どちらも命に危険が及びますが、片方はマスクが効果的で片方はマスクが命取りになりかねないんですから、人ってのは厄介ですね。仕事と私のどっちが大切なの!?とかいうバブル期のドラマのセリフが愛らしいよ。

 京都新聞『凡語』はKDDIの通信障害で、利用者への「おわび」に一律200円が返金されることについて書いていました。このニュースが報じられたとき、おおかたの反応は「なめてんのか」というものだったように思いますが、不思議なもので「総額75億円」と言われれば「KDDIも大変やな。。」となりがちです。同じことを言っていても、伝え方によって印象がこんなにも変わるという好例だといえるでしょう。他の例では「わからない」と「興味ない」があります。同じことを伝えたいのでしょうけど、「わからない」のほうが謙虚さがあります。今後、勉強したらわかるようになるかもしれないけど今は「わからない」んですが、「興味ない」のほうは、もう徹頭徹尾、「興味ない」ですから、そこには歩み寄りがいっさいありません。本心として仮に興味なかったとしても、「わからない」でいいのに、どうして突き放すように「興味ない」と言ってしまうんでしょうか。あなたが興味ないことに私は1ミリも興味ないのにね。興味ないと言ってしまったら、もうそこから伸びしろが消えますよね。興味ないと言う人は「私はもう成長する気がありません」と言っているように聞こえるのです。

 わからないことだらけだから、新聞1面のコラムを読んでいる私は、そこへいくと、いつも謙虚な勉強家だといえるでしょう。アホのほうが賢いのかもしれないし、アホはアホでしかないのかもしれない。アホは勉強するしかないのです。朝日新聞『天声人語』は黒人女優の二シェル・ニコルズさんの訃報について書いていました。1966年にテレビで始まった「スター・トレック」で、宇宙船の通信担当の乗組員を演じ、世に知られるようになったそうです。CNNによれば、黒人女性といえば端役の家政婦が多かった時代に、稀有な存在だったらしい。二シェル・ニコルズさんのほかにも、大リーグのジャッキー・ロビンソンさんら、黒人の社会的地位を向上させた先駆者の皆さんの血のにじむような努力があり、黒人に向けられる差別の眼差しは無くなりました。とまとめられない現状がもどかしい。天然痘が撲滅できたのは、人にしか感染しないかららしいですが、人にしか存在しない差別が無くならないのはどうしてでしょうか。わからないのではなく、興味ないからかもしれません。

 人しかやらない戦争が無くならないのもどうしてでしょうか。産経新聞『産経抄』は、ナンシー・ペロシさんが訪台することについて書いていました。ペロシさんは、昔から、中国共産党政権による民主派弾圧を非難しているそうです。今回、台湾を訪問することも、ペロシさんにとっては、首尾一貫した行動ですが、果たして、これが米中関係にどのような影響を及ぼすのか。中国による武力統一の危機にさらされている台湾にとって、どういう意味をもつのか。遠い国の出来事ではありません。日本の安全保障にも関係してくるでしょう。沖縄の基地問題にも影響してくるでしょう。京都から見る台湾と沖縄から見る台湾は全然違います。わからないから勉強しなければ。興味ないと言っていてはならない問題です。

 沖縄や台湾から、ずいぶん離れた青森県の「青森ねぶた祭」や秋田県の「秋田竿燈まつり」について書いていたのは毎日新聞『余録』です。「短夜」は夏の季語。夜明けも早く寝不足になりやすい今の時期、睡魔払いの行事があるのは不思議ではないと書いています。民俗学者の柳田国男さんは旧暦七夕の時期に木の枝や灯籠を川に流す「眠流し」や「ネブタ流し」と呼ばれる行事が東日本に広がっていると考証していて、柳田説によれば、「青森ねぶた祭」や「秋田竿燈まつり」は独自の発展を遂げたものの、元は同じ系列の行事に位置づけられるといいます。睡魔だけでなく、体力が弱る時期の疫病退散を願う意味もあったそうです。夏祭りのシーズン。京都は祇園祭が終わりましたが、第七波に加え、記録的猛暑の到来で、祭りの関係者の皆さんも頭を抱えていることでしょう。人々の無事を祈願する祭りが無事に終わることを祈願するという不思議な関係。

 夏祭りのシーズンであるとともに、8月は日本という国にとって特別な意味をもつ月です。「八月や六日九日十五日」という句が先日の日経新聞『春秋』に取り上げられていましたが、この日の『春秋』には、1970年代にはまだ、戦争の傷を忘れたふりをして生きる大人が大勢いたと書いていました。61年には三橋美智也さんの「雨の九段坂」という歌がありました。母は靖国神社で「せがれ許せよ」と思う。お国のための死と褒めたいが、それは母の真情ではない。でも戦いを否定すれば息子の魂は浮かばれない。歌が描く母親の揺らぎ、やるせなさは当時多くの日本人が共有していたのではないかと社会学者の見田宗介さんは『近代日本の心情の歴史 流行歌の社会心理史』で分析しています。戦後77年、興味ないで済ましてはならない、わからないことばかりの8月なのです。

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