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短編小説『水谷さん』

「奥井も気づいてたよな」
「ああ、水谷さんでしょ」
 先生が水原一平のことをずっと水谷さんと言っているのを俺とサトシは最後まで訂正できずにいた。
「俺、学生の頃に居酒屋でアルバイトしててさ」
 先生の背中を眺めながら俺はサトシに話しかける。
「焼酎とか日本酒って読み方が難しいやつがあるじゃない。神様の神に河でなんて読むか知ってる?」
「かんのこでしょ」
「そう、かんのこ。なんだけど、当時けっこうな確率で"かみのかわ"って読む人がいて」
 水谷さんと呼ぶ先生の話を聞きながら俺は"かみのかわ"の一件を思い出していた。上司と部下なのかわからないが、明らかに立場が上である側のおじさんがしたり顔で"かみのかわロックで"などと告げたとき、俺はどうしても訂正することができなかった。男にとって、神の河が"かんのこ"か"かみのかわ"かはおそらくどうでもよくて、そのどうでもいいことのために後輩とみられる男との話の腰を折られるのは気に入らないだろうと思ったし、俺としても、別にそれを間違えていることは、たいした問題ではないと思っていた。
「僕ならいったんオーダーはそのまま聞いておいて、持っていくときに"こちら、かんのこのロックでございます"っていって持っていくかな」
「それな。俺もそうしたことはある。でも今日の水谷くんの場合、その戦法はとれたかな」
「うーん。先生が水谷さんって言ってる話の相槌で"ああ、水原さんね"とか、さりげなく入れるってことでしょ。できるかな」
「例えば、いったん大谷がメインの話題にもっていって、それからこっち主導で水原さんの話に戻すとき、"水原さん"って言うとか、そういうやり方はできたかもね」
 そう話ししながらも俺は先ほどの先生との会話を思い出し、そんなやり方は理論上可能だとしても実際問題、無理だったのではないかという気がしている。言葉で言うほど簡単なことではないのだ。
「奥井もわかってると思うけどさ、いちばんいいのはやっぱり最初にちゃんと訂正しておくことだよな」
 サトシの言うことはもっともである。しかし、もっともであるからといって現実的かどうかは別の話だ。理想と現実の間には非武装地帯のような隔たりがある。
 確かにはじめに先生が「水谷さん」と言ったところで「水原さんですよね」と、ただその一言を付すだけで問題は解決するが、そこを通り抜けてしまったらもう取り返しはつかなくなる。仮に二度目以降に登場した「水谷さん」を訂正したときのことを考えてみよう。先生は一度めに通り過ぎた「水谷さん」のことを思い、俺たちにがっかりするに違いない。一回目はオレに気兼ねして「水原さんですよね」の訂正の一つも入れられなかったのか、オレとおまえらの関係なんてそんなものだったのか、と残念に思うに違いない。そうやって先生を嫌な気持ちにさせるくらいなら、徹頭徹尾、俺たちの間では「水原さん」は「水谷さん」であるべきなのだ。
「でもさ、例えば先生が奥井と僕を試してる可能性もあるよね」
「どういうことだよ」
「だから、本当は先生はわざと水谷さんって言っていて僕たちがそれを訂正するかどうかを試してるってわけさ」
 島耕作が福岡に転勤したとき、そんなエピソードがあったのを思い出した。福岡の量販店の社長さんだったか、島耕作と呑みにいき、ワインの名称をわざと間違え、島がそれを訂正するか否か試していたという話。福岡転勤の前、島はワインを扱う部署にいた。
「だとしたら俺たちもう終わってるじゃないか。それに仮に試してたんだとしたら種明かしくらいして帰らないかな」
 そんなことより俺が気になっているのは、このあと先生が別の誰かとの会話に「水谷さん」を登場させたとき、その人が最初のチャンスを逃さずに「水原さんですよね」と訂正してしまった場合、きっと先生は俺たち二人のことを思い出すに違いないということだ。
「あいつら二人、オレがずっと水谷さんって言ってるのを知ってて何も言わなかったのか」と気づいてしまったときに先生は、俺たちのことをどう思うだろう。優しいと思うだろうか、それとも・・・
「だから嘘はだめなんだよな。最後までつき通すのは骨が折れる」
「別に今回の場合は嘘じゃなくない?」
「いや同じだよ。最初は些細なこと、それこそ、水谷と水原程度のさ。その辻褄を合わすためにいろんなところで口裏合わせたり取り繕ったりしないといけなくなる。例えば、今回のことだって、そんなことまではしないけど、先生が水原さんの話をしそうなところに先回りして"先生が水原さんのことを水谷さんっていうけど訂正せずに聞き流しておいてくれ"ってお願いしておくくらいのことはしなきゃいけないかもしれない」
「まあ、水原さんはそういうことをしてたっぽいね」
「水原さんのことは知らないけど、僕もこれまで何度か嘘を重ねていくうちに抱えきれなくなったことがあるからさ。そうならないためにはやっぱり僕たち、最初の一歩目のところで"水原さんですよね"って言うべきだったんだよ」
 サトシの言うことは正論だが、もう無理な話だ。サトシとはもう随分長い付き合いだが、俺はずっと俺の苗字が奥井ではなく涌井であることを伝えられていない。共通の知人友人には全員に「サトシの前では奥井で通してくれ」と伝えてあるが、いやはや、いつまで貫き通せるか。

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