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安藤さんのお話

7年前のお話です。ザハの国立競技場が問題になった時。
この時までは表立った「アンドウ批判」というものはあまり目にすることはなかったです。けれどもザハを選んだことで安藤さんは真っ向から批判の対象となりました。結果いまかかった金を考えれば、全然ザハで良かったよね?と僕は思いますし、まあそもそも無観客なら建て直す必要なかったんだよねえとも思ったりしています。
ともかく「あなたは何と戦ってるんですか?(笑)」なんて書いてる連中がキモすぎて、いや、やっぱ僕は安藤さん好きだよ?って書いたものであります。

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実は安藤さん自体は
僕はどうしても嫌いになれないんですよねえ。
建築はおいといても。(失礼)
現在さまざま問題になってのも
まあわかる。
でも、偏って、さらに言葉の汚いネット愚民ケンチクカ共の
カウンターと言うわけではなく、
やっぱり安藤さんという人間は
嫌いになれないエピソードがありまして。


昔、僕の町には
「小倉市民会館」という建物がありました。
なんとなく好きで、
なんとなく愛着のあった建物でした。


会社に入った頃、TOTO出版の建築本で、それが「村野藤吾」という
建築家の設計であることを知りました。
もう、14年も前のことですね。うん。2000年だったと思う。
その市民会館が無くなることを知ったのは。
僕はその「市民会館」が、残っていて、欲しかった。


でね。当時持っていたヤスモノのEOSで、たくさん写真を撮ったのです。
そうして、手紙を書きました。
安藤忠雄さんに。
何をしたらいいかわからない、ガキの僕が考えたことですから。


多分二週間くらい後、会社に電話がかかってきた。工場の放送でよばれた。
「オーノサン、アンドウ事務所さんからお電話です」まだ営業らしいことなんて出来てない頃でしたので、アンドウ事務所ってどこだろう?なんだろう?って思った。

電話に出ると向こうからいわれた。
「オーノサマですか?今、アンドウに代わります」
え?
「あーもしもし。建築家の安藤忠雄です」
テレビと同じ、自己紹介で面食らった。


「あーお手紙ありがとう」
あまりにびっくりして、
よくわからなかった。
でも、安藤さんは続けた。
「あんなー、村野さんのやったらええのはわかんねん」
「僕がいってなにしたらいいの?」
がんばって応えました。
「いや、そういう建築が財産であることを話していただければと」
安藤さんは話しました。
「そーか、気持ちはわかんねんけどな。」
「でもな」
「そんなとこ、僕みたいなヨソモノが突然顔出して話したところで伝わらへんで」
ビクッとした。
「タテモノはな、地域の人間がどないおもってるかやろ?」
「自分らで動けへんかったらムダやって」


ものすごく、恥ずかしかったです。
何も出来てないの、見抜かれていたのでした。


14年前(今から行くともはや21年前)
今だったらまだ何か出来たかもしれないけど、
あの時は、無力すぎたなって思う。


小倉市民会館は取り壊され、
勝山公園とよばれるものに合併された。


でもそんな無力な僕のところに
電話をかけてきてくれた、
その安藤さんは、
やっぱり嫌いになれないんです。

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今でこそ、どんなスーパースターと対峙しても焦ることはなくなりましたが、嘘をつきましたやはり焦ることは焦ります。ともかくこの経験は心に深く刻まれています。おそらくファンレターやら弟子希望やらは山のように届いているだろうに、その手紙に対して電話してあげようお話ししよう、と、思ってくださった安藤さんの心意気というかそういう行動力には今考えても感服するところです。

僕自身は、もう充分すぎるくらい世の中的には大人なのですが、こういうことのできる大人になりたいなあと、今でも思います。

〈おまけ〉
いい話をしておいてこれはないだろうと思いますが、僕の「ごっこ」の原点、「アンドウごっこ」を最後に載せちゃいますごめんなさい。
(大分のホテルで仕事の途中で目の前に映った自分がそう見えたのでした)

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