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作品をつくる理由

こんにちは、小山ひときです。 
自分のnoteだから自己紹介しなくても書く人は私しか居ないのですが、なんとなく毎回「我はこういうものぞ」と名乗ってから始めるスタイルで行きたいと思います。

全く関係ありませんが、5色のカラフルな特撮戦隊たちは変身する時に名乗りますね。

「◯◯レッド!!!」
「◯◯ブルー!!!」
(ドーン!!※爆破や背景バーン)

みたいな感じです。

あれは能や歌舞伎などで、新たな人物が登場すると
自分はこんなキャラだぜと名乗り、説明するところからきていると何かで読んだことがあります。ハートに響くわけですね!ちなみに私は、敵を倒し戦隊が画面側に振り返り、背景で敵が倒れながらの背中でドーン!!(爆破)を見ると胸が熱くなります。

さて、今回は作品の話です。

先日、Twitterでアンケートをお願いしてみました。

作品づくりについての内容にご興味を持っていただけたということで、とても嬉しかったです!ありがとうございます。
いろいろお話する前に、そもそもなんで作品を作るのかという特撮の名乗りのようなところから始めてみたいと思います。

人ぞれぞれ、作品を作る理由は違っていいと思います。これが正解、こうあるべきというのでは全く無くて、ただ、私はこんなふうで作品を作り始めて、なんで今も作るのかというお話をしていこうと思います。



そもそも「作品」ってなんなのか?

「作品」ってなんで作るんでしょう。「作品」ってなんなのか?
念の為検索してみました。

製作した品。特に、文芸・音楽・美術工芸などの芸術的製作物。
「文芸-」 「芸術-」
コトバンク(最終閲覧日:2019年8月26日)
https://kotobank.jp/word/%E4%BD%9C%E5%93%81-509723

製作したものが作品なら、私やみなさんが撮る写真は作品になりそうです。でも、芸術的制作物となってくると、意図や意思をもってものを作ったらわかりやすく作品だけど、じゃあ毎日のスナップは作品なのかとかそんな議論もありそうです。それは賢い皆様にお任せするとして(※)、私はどうして作品を作るのかのお話を進めていきたいと思います。
※定義や以前からある議論や、色々とあると思うのですが知識がなさすぎてチラシの裏になりそうなのでここではやめておきたいと思います。


”自分の見たいものがない”から作る

写真を撮り始めたのは2010年くらい。
中古のEOS Kiss デジタルを、レンズ込み送料込み1万円で購入し、毎日歩いては写真を撮って遊んでいました。なんでそんな事をしていたかというと、とにかく気楽で楽しかったからです。

カメラを始める前、私は手製本のリトルプレスをしていました。
お話を自分で考えて、絵を描き、本のデザインや紙を決めて、手で切って、折って、縫って、貼って。製本をして本を作るというものです。
本格的なものづくりのはじまりはもともと絵が好きだったということがあるのですが、その中でも豆本に出会ったことがきっかけだった気がします。豆本というのは、掌に収まる程度の小さな本のことです。

ある日、姉からこんな可愛い本を見つけたよと手製本の豆本をもらいました。内容は、動物たちが森で暮らしていて云々というものでしたが、読み終わった後に私が感じたのは癒やしでも楽しさでもなく

「なんでこうした」という苛立ちだけでした。

どうしてこうした、なんでこうなった。鳥の気持ちはどうなる。鳥の大切な部分を奪っておいて、なんで鳥ふくめ全員笑顔のエンディングなんだよ。

私なら絶対これは無い。こんなものを見たくない。

いらいらして、気がついたら本をばらして構造を見ていました。なるほど、こういう作りか、じゃあ私が見たいもの作ろうと。そこから、ものを作ることが本格的に始まりました。理想の本を求めて、自分がいらいらしないものを求めていたら、気がついたらルリユール(西洋の工芸製本)教室に通い、上製本で作品を作っていました。そうしているうちに製本の0.1ミリ、0.2ミリのズレが許せなくなり、どんどん自分を追い詰めて作ることが苦しくなっていきました。

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※最終的にこうなっていました

”生きる許可を取る”ためにつくる

気がついたら私は生きる許可を取るためにものをつくっていた気がします。写真展の作品説明の際にお話することがあるこの「生きる許可」の話ですが、写真を撮る前から始まっていました。

子供の頃に「お前はブサイクでばかで生きている価値がないから死ね」という言葉を日々刷り込んでもらったおかげで、自己肯定感が低い人間になりました。その中で、でも絵では勝てない、という言葉があったことで「絵で勝てば死ななくて良くなる」という思考になり、ずっと、ものを作ることで1番にならなくては生きている許可が取れないと思ってきました。でもそんな実力もないので、簡単に1番になることなんてできません。困ったものです。

自分以外の人間は素晴らしい人ばかり。だから、そんな素晴らしい人達が仕事をした時間の対価(給与)で私の作品を購入してくださる度に、私には3000円分の価値がある、5000円の価値がある、だからその金額分の生きる許可が取れた!と思ってそれを繰り返していました。自分の納得できる、美しいものを作る。そして生きる許可を取る。

一番にならなくてはいけない。そうでなければ生きている許可が取れない。ものづくりだけではなく、仕事でもそれは同じで、つい最近までコンペで落ちたりすると生きる許可がない、生きている価値がないと言って過呼吸で床にへばりついたりして袋で二酸化炭素を吸ったり吐いたりしていました。
許可が取れないことは日常だったのですが、精度の高いものを作り続けること、自分を追い詰めることを繰り返すことに徐々に疲れていきました。

作品を作る理由は変化していく

そんな時にカメラに出会いました。
自分で絵を描かなくてもいいし、0.1ミリに追い詰められることもない。美しい世界は目の前に広がっていて、シャッターを押すだけでそれが撮れてしまう。なんて楽しく、なんて気楽な世界なんだと思いました。

2013年からはフィルムカメラを使い始めて、楽しく日常を切り取っていました。ファインダー越しの私の世界楽しみまくりです。それが2015年に、3人展に誘われたことで変化していきます。

3人展のタイトルは「神様は直接見てはいけない」
自分の中で神様について考えだした時に、黒いものが沢山姿を現しました。この時に、自分の内側を初めて写真に出したのだと思います。

気楽だったゆるふわ写真ライフ。カフェや旅行できらきらスナップを撮っていた世界線とは別で、ものを作ること、作品を作ることが動き出したように思います。

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人生の重たいものが昇華していく気がした 

1番になって生きる許可を得ることから、多分このあたりから、自分の内側を形にすることへ変化していきました。

自分の内側を形にすることをいくつか重ねた時に、個展をすることになりました。2017年のことです。この時に、いままで表に出さなかったこと、苦しかったことや悲しかったこと、寂しかったことや、心の中枢にあるイメージを形にして人に見てもらえた時に、人生の中の重たい色んなものが昇華していく気がしました。それから、随分と生きやすくなった気がします。

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https://koyamahitoki.tumblr.com/post/167730127235/fictional-self-portrait


今、何のために作品を作るのか?

自分のことがもろもろ片付いた今、気がついたことがあります。
私は、作品を作る時に主にポートレートを撮りますが、その時に被写体さんの生い立ちを聴いたり、悲しかったこと、辛かったこと、怖いこと、嬉しかったこと、好きなこと等を教えていただいています。聴き逃げはずるいので、私も自分の人生で起こったことなどをお話します。

人とうまく関われなかった自分が、この時ようやく、人とまともな関わりができているような気がするのです。それを作品という形にして誰かに見てもらった時、相手と自分の中の関わりで生まれたなにかが昇華されていく感覚があります。

たまたま出会った私達が、たまたま関わって、作品を作って。不思議なことに、なにかの境界線や節目にいる方に出会うことが多いです。作品を作った時に、そのものづくりが被写体さん、或いは見に来てくださった方の出口になったり、なにかのいとぐちになったり、ぐるぐると同じところを回り続ける螺旋階段のほんの少しの傾斜に気づくきっかけになることがあります。

そんなとき、なにもできない人間の私はほんの少し、まるで魔法使いになったような気持ちになります。たまたまの偶然が引き寄せた奇跡みたいなきらめきが、嬉しくて、愛しくて、人の感情に関わることが「これが生きてるということなんだ」と私に教えてくれます。

それがもうやめられません。これが、私が作品を作る理由です。

今、私の目に写る世界には、美しいものがたくさんある。
作品は、誰かにみてもらって初めて完成するといつも思います。一緒に作品をつくってくれる被写体さん、展示を見に来てくださる皆様、SNSで興味をもってくださっている皆様。

私が生きていることに付き合っていただいて、ありがとうございます。
とても、幸福です。



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追記:4年後に「作品を作る理由」の続編、2を書きました


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