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#13『ビート世代の最終的なもの』

最終的なものなんかてにはいらないよ、カーロ。
最終的なものに辿り着くやつなんかいない。
みんなそれを手に入れたいと思って、生きてるだけさ。

ケルアックの「オンザロード」の一説である。

なんて腑抜けた言葉だ、まるで10代を過ぎて聞き分けが良くなった状態で読むサリンジャーみたいな歯痒さ。
使い古された概念、今更そんな言葉で僕をどう傷心させるつもりなんだろう。

僕がビート世代の作品と出会ったのは大学生の頃。
バロウズの「裸のランチ」を好きになったのは、大学生特有の見栄だった。
世代も異なれば、アメリカの文化やドラッグにも無縁な日本人の青年にはほとんど訳が分からないものだった。
だけど、少なからず訳の分からないものと共鳴することで、訳の分からないものになりたいと思っていた。

満たされなかったのである、つけっぱなしのテレビと、途中やめにしたジャズギターと、思い通りに描けないイラストが生活を蝕んでいて、アルコールに逃げていた。
大学の図書館で映画を観た帰り道も、心許せる友達との酒の席でも何か満たされない気持ちだけが生活の中で際立って、役立たずのレコードばかり聴いていた。

やる人はやる、やれば出来るなんて言葉は10代だけに許された言い訳、君は真冬の大学の喫煙所で寒さに震えながら煙草を吸って、何かひとつでもやってのけたのか、そんな自問自答ばかりが頭の中にベタベタと張り付いていた。

更に追い打ちをかけるように悲し出来事は続いた。
僕の下手くそな落描きを目を輝かせて褒めてくれた唯一の理解者が死んだ。
原因はアルコールの飲み過ぎで体を壊してこの世を去っていた。

時の流れは残酷だ、大切な人やものを僕から何の躊躇いもなく次々と奪っていく。
僕は恨んでいた、鬱陶しいくらい晴れわたった空も、目眩がするような季節の空気も、何もかもが恨めしくて仕方なかった。
そうやって今現在をいじけた言葉で否定し、過去の自分を羨んでばかりいた。

なぜ人は今この瞬間に完璧なものを見出すことが出来ないのだろうか、なぜ幸福とは過去の記憶の中だけで思い出される余韻なのだろうか。
僕は少しも今を生きていない、現在に存在するのはこの体だけで、心は常に失われた過去に存在する。

それは今が永遠に続くと勘違いしているからだ。
いつか来る終わりは、いつでもないいつかのことで、そんなことを想像しても現実味を帯びていない。
少なからず自分が明日死ぬなんてことは考えないし、死なんて一生やって来ないとすら思い込んでいる。
だから今この瞬間を毎秒粗末にしてしまう。

幸福は常に1日遅れでやって来る、その瞬間に確かな手触りで感じ取ることは不可能だから、僕らは神様の存在とか楽園とか手触りのない憧れを信じている、初めから手に入らないと知っているものに共鳴して、今を紛らわすことに必死になっている、そこにしか最終的なものを見出すことができないのだ。
それならば僕は過去の自分を羨み続け、存在しない最終的なもののために歳をとって、最後には何もないという失望を抱えて死んでしまうのだろうか。

人は死を目の前にしなければ幸せが何か気づかない、だけど死を受け入れられる時にはとっくに遅いのだ。
一生辿り着けない、よく分からない何かを求め続け、何にも辿り着けない。

ならばいっそ余命宣告された方が幸せだ、死ぬ日が分かっていれば現在を疎かにすることなく、手触りのある幸福を実感出来るはずだ。
漠然とではなく、確かな死に向かって生きること、最終的なものとは限りなく死に近づいた生き方なんだ。

今現在の自分が限りになく死に近づく方法、それは向こう見ずな状況に自分自身を陥れることだ。
それは一体なんなんだ、何をすれば限りなく死に近い向こう側に辿り着けるのだ。

僕は本当に訳の分からないものになってしまった、こんなものは望んでいなかった、何を望んでいたのかももう分からない。

そんな時に改めてケルアックの「オンザロード」を読んだ。
偉そうに本棚に居座っていやがる、村上龍の「愛と幻想のファシズム」を隣にしてよくそんなに威張っていられるものだ。
このクソ野郎、その勇気を買ってやる、かつては途中で放り出したが、その態度が気に食わなくて気に入った、最後まで読んでやろうじゃないか。

それもまたひとつのタイミング、その時の僕は吸い込まれるように次々とページをめくる羽目になった。

内容はいたって単調、浮き沈みのない自堕落な文章の連続。

主人公の物書きがディーンモリアーティという破滅的な男と出会い、アメリカ大陸を渡り歩くだけのロードムービーのようなお話。
しかし彼らは旅を通して人生の真実を探し続けていた。

大事なのは、俺たちは“あいつ”とは何かを知っていること。“時”を知っていること。すべてが本当に素晴らしいことを知っていることなんだ。

結局アメリカ大陸のどこに行ったって最終的なものなんかは存在しなかった。
だけど旅の中で、時には死と隣合わせになりながらも、日常の小さい概念の積み重ねをひとつひとつ理解し、いかに人生が素晴らしいかということを僕に訴えていた。

そして即興的なモンダンジャズのような生き方、自由な枠組みで一瞬一瞬の表現がメロディに変わる今現在の証明の繰り返し。
それは確かに、人生はこうあるべきという制約の中には存在しないということを僕に教えてくれた。
そして自分の生きる場所は自分で決めることができるということも。
僕らはどこへでも行けるんだから。

僕がこの小説に陶酔した理由は、目的が存在しなかったから、あるいは漠然とした概念のようなものだったからだ。
明確な夢があってそれに向かって努力挑戦するアホ小説のように、分かりやすい愛と正義と友情で感動などさせてはくれない。
文字通りビート・ジェネレーション(くたびれた世代)が日常から飛び出して、旅を通して超越した向こう側に足を突っ込もうとする紀行文だから。

ぼくらには生きているあいだ求めつづけているものがひとつあって、それが溜め息や嘆きやさまざまな甘い吐き気の原因になっている。それは子宮のなかで味わっていたにちがいない失われた至福の思い出で、それがふたたび得られるのは(みんな認めたくはないのだが)死のなかでだけなのだ

そんなことは初めからディーンモリアーティも分かっていた。
それでも死を選ばずに旅を続ける理由は何なのか。
それは抗うためだ、人生に、生命に、そして手触りのない死に抗うためだ。

限りなく死に近い生き方とは、生命に抗った最も死から離れた生き方だ、それこそが最終的なものだったのだ。
僕は間違っていた、生きていく時間の数秒毎に幸福を失っているんじゃない。
僕達は生まれた時点で既に失っていたのだ、それを埋めるために死に抗っている。
逃げることの目的は生きるため、ただそれだけ。
旅を繰り返し、すべてが本当に素晴らしいということを知るのと同じように、僕らは死ぬまでずっと、生まれてきてよかったと思える瞬間を探し続ける。

ディーンモリアーティは生きることが好きな奴だった、破滅的な時には決まって、万事順調、万事順調。
狂っているのだ、人は狂っていなければいけないのだ。
まるで空っぽの化け物、暴力が突っ走るような破滅的な気分にならなければ、すべてが本当に素晴らしいなんて気づけやしない。
ジェット世代の放浪児、マッハのスピードの先で年代物のアナキズムを真空に注ぎ込むのだ。
僕は向こう見ずな今を愛している、本当は今この瞬間だけを愛しているのだ。

そしてジョンレノンは僕に言った。

君はどこへでも行けるのに
どうしてそんなところにとどまっているんだい?

いったい僕の腰を重くしていたものは何だったのだろうか、ほとんど自分自身が作り出した虚無と幻想に過ぎないじゃないか。
僕らは留まることなんて出来やしない、ただ横たわる今が過去に流れるのは幸福を手放しているんじゃない、死を遠ざけているのだ。
僕は死なない、僕は一生死にはしない、そうやって生命に抗って、向こう側へたどり着く、最終的なものを手に入れてみせる。

ケルアックの『オンザロード』は僕に旅をさせた。
ディーンモリアーティは僕の良くない友達だ。
僕は彼のことが大好きなんだ。
今頃、どこか遠くの国でメリールウとよろしくやってるんじゃないかな。

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