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言葉と動き。

レッスンでの言葉。


言葉と動きってピタッと一致しています。
言葉と言ってもいいですし、
イメージと言ってもいい。
なんなら何にも考えていないつもりのこと、
無意識であってもいいです。

なにかしらの言葉やイメージやがないと
動きとして表現できません。

なにかしらものを持っています。

そのなにかしらのものが
違ってきていて、例えば、
痛みや、もっとこうしたいが
出てきているわけです。

その時、動いた結果が
もっとこうしたい、と違う場合、
その動きにピタッとくっついている
イメージが変わらないと動きは変わりません。

もしくは動きを全く違うものにして、
イメージの内容を変えようとする。
これは動きとして結果が同じである必要があります。


私は最近の科学的手法で生み出された
研究結果というものに疑問を持っています。
それは分けて分けて、それから繋ぎ合わせているから。

全体を見渡すことができて、
部分を観察し、また全体に戻る。

そんなこと本当にできるのでしょうか。

全体は、ここにあります。


精神世界や、宗教のようになってきましたが、
これらだってほんとうは怪しいものなどではなく、
必要なもので、もっというと
なくてはならないものです。

なになに教である必要はなく、
何か信じているものです。
それのためなら頑張れる、程度のものです。

おじいちゃんがみてる、とか。
お天道様が観てる、とか。
代々受け継いできたもの、とか。

そのものに、なにか親しみを感じるようなもの。

何ものでもない全体の話でした。
全体の中にいては全体を見渡すことはできません。
そういうものでしかないんです。

だからこそ、
私がやっている、と書いたんです。

言葉は全体に影響を与えます。


意識しているしていないに関わらず、
私たちはイメージで動いています。

無意識であった場合、
一人で変えようとするのは難しそうですよね。

なんせ無意識なので、意識できない。

私たち教師は動きを通して無意識がわかります。
(なんか超能力者みたいな書き方になりました)

この生徒はこう動きたいんだな。
多分、これって意図していないだろうな。
こう動いてしまっているだけなんだろうな。

なんてことから推測するんです。

そのことを伝えると、やっぱり
本人はわかっていない。

これを変える。
途方もないことをやろうとしているように思えますが、
大丈夫、私たち教師を使ってもらって
自分自身でやれば変えられます。

(アレクサンダーさんは一人でやったわけですが、
私たちも同じように一人でできるようには私は思えません。)


自分自身のやっていることを
変える、変える方法を
伝えているんです。

なので、自分でやる必要があります。
施術ではないですから、
私たち教師が変えてあげるんじゃないんです。


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