名聞なき名文論

ふと思い出して、昔のブログを探したらまだあった。社会人になりたてのころ綴ったものだ。

せっかくなので転載。

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名文とは、何か。

辞書的にいえば、
「論旨がだれにでもよく分かり、しかも訴える力の強い文章」(新明解国語辞典-第3版/三省堂より)
となる。

文章の基本が、「達意」すなわち、言わんとすることの伝達である以上、
それが名文の条件であることは、至極もっともなことである。

ただ、そうではない名文というのも存在する。
詩のように、言わんとしていることは曖昧模糊としているが、
その調子や響きが美しいという文章が存在するものだ。
それもやはり、ひとつの名文であると思う。

読書中、この文章が名文か否か、判断できるようになるには、やはり相当な読書を重ねる必要がある。
さまざまな文章に向かい合ってきたからこそ、分かるというものである。


………と、
なんやかんや御託をならべましたが、
結局どんな文章も、自分がいいと思えばそれが名文です。


あくまでも判断基準は自分です。
『文章読本』(丸谷才一著/中公文庫)の中で、丸谷才一さんが、

「名文であるか否かは何によつて分かれるのか。有名なのが名文か。さうではない。君が読んで感心すればそれが名文である」

と述べており、
心の中で思わず、「そうだそうだ! いいこというじゃん。」なんて一人ではしゃいだことがあります。

文章も芸術も、なんでも批評家があふれ、メディアが氾濫している世の中では、
「自分基準」というものが、薄れつつあるような気がしていました。

自分がいいと思ったのか、人が言いといったからいいと思ったのか、
そこらへんの基準がよくわからなくなっているような。

極端に言えば、世界中の人がダメだと感じたものでも、
自分がいいと感じたら、いいのだと思えることが必要なんじゃないかと思っているのです。

正直、そういう人は、大衆受けは望めません (笑)


さて、大きく脱線しましたが、また名文の話。

何が言いたかったのかというと、
僕の中の名文をひとつ紹介したかったんです。

一読して、その情景が眼前に浮かび、とても美しいと感じた文章です。
書き手は、芥川龍之介。
『河童』(集英社文庫)の「或阿呆の一生」より。


「彼は雨に濡れたまま、アスファルトの上を踏んで行った。雨はかなり烈しかった。彼は水沫の満ちた中にゴム引きの外套の匂を感じた。
 すると、目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発していた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケットは彼らの同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠していた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
 架空線はあいかわらず、鋭い火花を放っていた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかった。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった。」


理由はないんですが、いいんです、この文章。

で、この本の解説の中で、この文章が芥川の名文のひとつと紹介されていて、
そうかそうかと。
他にもこの文章にやられた人がいるのかと、思わず感心しましたが、、、

ん? それってすでに「自分基準」じゃないんじゃ、、、、。
なんて思いましたが、いいんです。

なぜなら、解説を読む前にいいと思って、ドッグイヤーまでしてましたから!!


以上、僕の駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
ではまた。

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この頃から「名文とは何か?」なんてたいそうな問いを立てて自分なりにその解を探してあれこれ考え、本にヒントを求めていたよう。

これを書いてから10年以上経ってるけれど考えてることはそれほど変わってないな。

昔の自分にこうして出会うのは気恥ずかしくも懐かしく、自分を再確認できるものだ。


noteももう少し頻度高く更新してみようかな。

ではまた。

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