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まざりあって中濃ソースを目指してる

30をこえて少し経つ。
知っている人の結婚を通り越して、最近は亡くなるニュースを目にするようになってしまった。
風立ちぬ、が大好きな身として、「創造的な時間は10年だ」というあの言葉が滲みる歳になったなと感じる。

重く感じたことがあるから、軽いのかも

一方で、心が軽くなってきたなと思うのも、つい最近だ。

高校生の時、雨の日に湿って混み合うバスの中。不快な人が赤く色づくなら、真っ赤っかの車内で、歪んだ景色と端がぼろぼろの英単語帳を交互にぼんやりと眺めながら漠然と不安に襲われたことを思い出す。
今の半分くらいしかなかった狭い乗換駅のホームの端っこを誰かに落とされないように歩きつつ、でっかい空洞のような線路を覗きながら、これから自分がどうなるんだろう、と飲み込まれそうになった時のことも。

当時は怖いものだらけで、憧れたはずのひとりぐらしも、来月の試験も、どこで過ごす想像もつかない大学も、どれが本物かわからない友達も、治りきらない赤いニキビも。ぜんぶがこわかった。
同じくらい期待だらけで、行ったことのない広いキャンパスも、お洒落な制服を着る予定のカフェバイトも、地元が異なる人との新しい出会いも、すべすべの白い肌に仕上げてくれるお化粧も。全部が楽しみだった。
知らなかったから、たのしみで、こわくて。
だから全部を知っていたら良かったともおもわなくて。

ひとりでいることが怖かったから、いま、ひとりでいることが楽しいとも思える。うまくいえないけど。

もちろんLovemyselfを実践して伝えてくれるアイドルとの出会いも大きいけれど、周りとの距離感というものを自分が出来上がるにつれて持てるようになったのも大きい。

ただなにより、自分に期待しすぎることを諦めたことが、いちばんだと思う。
それは勿論生きやすくもなったけれど、何かを失った結果だなとも思う。

政治と音楽とMr.children

知っている人達の死亡のニュースをきき、
創造的な時間は10年という言葉が沁みるようになって気づく。
誰かの大切な10年を隣で感じ、リアルタイムで知るのが簡単ではないこと。
画家の絵は人の寿命に比べて随分と長いけれど、
ライブやオーケストラは、その場の1回きりで、再現の機会すら多くない。

そしてその時が、自分自身にとっても大切な10年である可能性だってあって。でもそれぞれの大切な時間を割きあって、混ざり合うからこそ、人生という料理は仕上がっていくのかな…とも最近は思う。

自分の大切な一部を受け渡して、相手の大切な一部をもらうことを慎重に繰り返す作業。実際に好きなアーティスト…バンドや音楽家、画家や作家について調べると、こんな著名な人と交流があったんだ、と驚くことがしばしばある。(もちろんファンダムという個が鞣された団体だって同じく、影響を受けあう交流の一種だと思っているし)

Mr.childrenというバンドを長く追ってきた私にとっては、坂本龍一という人も少しだけ前から知っている名前だった。
そしてこの二つのアーティストの共通点は、比較的、政治と音楽という切り離せないけれど異なるジャンルに対して、意識的につなげて切り込んでいることだなと感じる。

政治に切りこむアーティスト、だなんて中学生のときはなんとなくかっこよくて、高校生になってからはなんで叩かれるようなことをわざわざしているんだろう?と思った。歌詞はわかったふりをして聴きながら、良い曲をかくひとは難しく考えすぎてしまうんだろう、と自分とは切り離した。
大学生になって、震災と向き合うアーティストとして目撃して、音楽が与えられるものの矮小さと、そして音楽でしか埋めるができない穴の膨大さを知った。背負うものの大きさと、それに伴って聞こえることの重さの違いを感じた。
社会人になって、自らが与える影響の小ささと、その小ささの積み重ねやわずかなゆがみやズレが社会に与える影響の大きさを知った。そしてMr.Childrenというバンドが曲を出す年齢を越え、よりいっそう曲に寄り添えるようになった。

今は平和なようで争いばかりだと思うけれど、曲に沿って思い返してみれば、未来への期待に溢れた2000年だってイラク戦争に、その前は沖縄返還に…どの時期も比較できない悲惨さに溢れていたなと思いつつ。

アーティスト同士が影響を受けあって、新しい時代に踏み出すように、
私が何を選択したかで、私も新しい時代に踏み出していくなと思う。
これまで見てきたもの、今の自分を言葉にすること。

思想と音楽と坂本龍一

思想と音楽についても最近は考える。
BTSのリーダー、RMが過去の曲について話すときに、失敗や時代に合うかどうかを気にとめながら、今とは異なりますね、と静かに話すのが好きだ。
坂本龍一という人の人生を追ってもまた、「当時の自分はこうだった」と全く違った見方で振り返るところが、好きだと漠然と感じる理由だったりする。
坂本龍一と武満徹のエピソード…武満徹アンチのビラを撒いていた坂本龍一が、本人に見つかり話し合いになって、結果当時は若かった、と和解して話すのとか今考えてもクレイジーだ。当時は羨ましい気持ちが憎しみで出ちゃってごめん★って感じにきこえて、そんな風に済ませちゃうんだ、ってびっくりして、ちょっと笑ってしまった。
晩年振り返る記事はこれだけで素晴らしい読み応え。(ちなみに私は武満徹の曲を聴くと、暗闇で殴られている気分になんとなくなる。)

でも、私もそうなりたいな、と思っている。
過去の自分から一貫しているのもかっこいいけれど、変わりゆく環境のなかで、変化して、時に過去の自分を否定しながら進むのが、私がおもうかっこよさ。だからこそ、どの好き、を選び取って進んでいくかの、今、がすごく大切だなと改めて感じていて。

そのうえで彼らの音楽の厚み、というやつに今は惹きこまれて仕方ない。
音楽を愛する人たちの本気。
私は作る側ではないから、曲として影響を受けることはできないけれど、こうやって考えることで少しでも混ざり合って、新しい私になれたらいいな。

死を意識して日々を過ごすにはまだ歳が足りないけれど、きっと20歳を迎えたときに感じた、すこし体温が上がって、でもうすうす気づいていたこれまでとの変わらなさにがっかりした気持ちと同じように、ただ変わらず淡々と日々を過ごしたい。
もちろん、だんだん軋みの出る身体で過ごすことの難しさや運がどれほど必要かは想像に難くないけれど、受け入れて、ただまっすぐに過ごす日々であれたらいいな。
そして、教授の遠い旅路が安らかであることを願っています。

この先目指すもの

友人に私は、ワンピースだとレイリーを目指しているとひょんなことから話した。レイリーは、主人公のルフィの夢を、自分の夢をかなえた大人として適切な手助けやアドバイスをして、適切に手や目を放してくれる、そんな存在だ。友人は、そんな話をきいて、北村らしいね。北村は歳を重ねてどんどんよくなっている、最近の北村からでているだし汁やばいよ、と言ってくれて、とても嬉しかった。

未知の味を想像して涎を垂らすとき、今の私にとって一番おいしい料理がそこにはある。はずなのに、ずっとほしかった経験というやつを積むにつれて、少しずつ、想像できる味を超えられなくなってくる。たくさんのことを知るにつれ、最悪の感情や、最高の感情が更新されていくと、その振れ幅の間にだいたいのことが収まるようになる。自分が感知できる限界も、わかるようになってしまう。記憶も少しずつ混ざり合い、曖昧になっていく。

だから、これまで吸収してきたり、経験してきたたくさんのこと達が、唯一無二の複雑で美味しい味になっていったら良いな。とおもう。それぞれがわけられなくても、想像できてもいい。なんかわからないけど、すきだな。おいしいな。と思えたい。

膨大な時間や手間暇をかけて漉しとった、たったひとつを極めて、汚れのない器で味わう澄んだ味とは違うけれど、ソースみたいに、なんだかわからないけれど美味しい匂いがして、なんにでもあう、そんな人になれたらいいな。それか、おでん屋さんの、もう何が染み込んだのかわからない、ちょっと濁って、大根のかけらなんかが入っただし汁。でもお酒と割って飲むの、ちょっと悪いことしてる背徳感も相まってめちゃくちゃ美味しいんだよね。

ほっと安心して、普段でも、美味しいものにも、味のしないものにも、デミグラスソースの隠し味にも、ちょっぴりだけ主張してくれる子。
特別じゃないけど、どこにだって馴染める子。

なりたいな。なれますように。

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