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「妹みたいなものだから」(いただいた言葉は宝物) その2

「子供は生きてるだけで100点なんですよ。だから、テストで20点取ってきたら、120点ですよ」
「子育ての最終目標は、自立。子供が安心して巣立っていくには、この小学校時代という大切な時期を、たっぷりの愛情で満たしてあげてくださいね」
「子供には親の都合は、関係ないんですよ。ちょっと考えてみてください。お母さんがおっぱいをあげている時、はい、今日は忙しいからこの辺でおしまいね、なんてしないでしょ。でも、ちょっと大きくなると気づかないうちに、コレやっちゃってますから」
 私は最後の言葉に、深く同意した。
 そうそう。
 私の母は、まさにコレをさんざんやっていたんだなぁ。母はそれを、忙しいからと正当化していたけれど、やっぱり良くないことだったんだ、と改めて思った。
 聖書の時間、城石先生が毎回話してくれるわけではなく、他の先生方もローテーションに入っていた。予定表が配られ、だから城石先生の日はわくわくしながら、学校に出向いた。城石先生は、全校生徒の顔と名前はもちろんのこと、保護者の顔も覚えてくれていた。
 それは。
 当然のことではない、と思う。現に次男の湊が5年生になる年に定年され、後任でやって来た新しい校長先生は、まったく違うタイプだったから。
 聖書の時間中、先生は時々昔話をしてくれた。小学校の先生だったお母様は、けっこう厳しい人で、悪いことをすると城石先生を庭の木に縛りつけて、そのまま仕事に行ってしまったと言う。泣き声を聞きつけた隣家の年上の女の子が紐をほどいてくれた、と先生。その話が、どのような結論に繋がっていったのかは、もう覚えていない。
 ただ、
「城石先生も毒親に育てられたのかも・・・」
 と勝手に思ってしまった私なのだった。
 戦後間もない混乱の時代、このくらいのことは躾の一環だったのかもしれない。少なくとも、笑い話のトーンで話していたから、先生自身虐待とは思ってはいないと思われる。
 それが証拠に。
 将来を決める時、城石先生のお母様は、
「あなたの良いと思う道を行きなさい」
 と言ってくれたと言っていたから。子供の自由を尊重する発言。これが言えるのであれば、お母様は毒親ではなかったのだろう。
 とは言え、木に縛りつけられたエピソードは私の心の中で、インパクトのある話としてずっと残っていた。

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