ああ、わかりあえない、と知った日。(義妹の人生にも思いをはせてみる) その5
義理実家に来た時も、他の人を寄せつけず一人で世話をしていた。
そして義父母のアドバイスも一切聞かずに、
「私のやり方で育てますから!」
と強い調子で言っていたけれど、こういうところにも病理が見え隠れしていたのだと思うのは、やはり後になってから。
「志穂さん、あの頃すごかったよね~」
と姪が成人してから思い出話として私が言うと、
「あの時は、ああするのが正しいんだと自分で思いこんじゃって」
志穂は、そんなことを言っていた。
そう、誰の意見も聞かず、誰にも相談せず一人で抱えこんでしまうタイプだった。
姪の誕生から2年後、ようやく私も子どもを持っても良いのでは? と思えるようになり、妊娠した。
そうしたら、志穂から長い手紙が来た。
おそらく義母が「先輩ママ」として私にアドバイスしてあげて、と頼んだのだろう。手紙の他にも、マタニティウエアや赤ちゃん用のおもちゃなどを貸してくれた。とてもありがたかったし、手紙も先輩面しているというより、
「誰が何と言おうと広大さんと稀沙さんの思うように育てたら良いのです。お2人の子どもなんですから」
というような内容だったので、励まされた。
そうして。
私も志穂も2人ずつ出産して、順調に人生を進めていった。
ただ、子どもが大きくなるにつれ、七五三だの、それぞれの誕生日だの、クリスマスだの、花見だの、もちろん新年会だのと一族が集まる機会が格段に増えていった。
ほとんどは義理実家に行っていたが、花見の時期にはきれいな桜並木がある志穂宅に行くこともあったし、我が家で集まることもあった。
私は、もっと志穂とコミュニケーションを取りたかった。
けれども4人の子どもたちがちょろちょろしていて、特に長男の翼は思わぬ怪我をするので、よく見ていないと危ないから、落ちついて話すことが困難だった。
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