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「妹みたいなものだから」(いただいた言葉は宝物) その6

 よく考えてみれば、非常識きわまりない、とも言える。私の立場は一介の父母。しかも、とうの昔に子供は卒業しているわけで。
 けれども。
 城石先生は、本当にあたたかい人だった。私が、赤裸々な告白をしてから、2,3年経った頃、いつものように教会に顔を出し、お茶を飲んでいた時のこと。
「僕は、九葉谷さんからあの日話を聞いた時から、一日たりとも九葉谷さんのことを祈らない日はありませんよ」
 え。
 本当に?
 クリスチャンにとって、祈りは本当に大切なこと。私のことを思い、祈ってくれているのか。一日も欠かさずに。
 私は、ありがたすぎて涙ぐむよりも強烈な反応としての「フリーズ」を起こしてしまったほどだ。
 そう言えば以前。
 聖書の時間に、
「朝お祈りをしているんですけど、祈っていると次から次へと色々なことが思い浮かんできて、よく妻にもう出かける時間よ! って声かけられることあるんですよ」
 と笑いながら話していた。
 気づくと一時間、一時間半が経っていることもあるという。城石先生は、本当に相手のことを思い親身になってくださるので、他にもきっと深い悩みを相談している人がたくさんいて、そのリストはとてつもなく長いものになっているのだろう。だから、一時間半もかかってしまうのだ。その列の中に、私も入れてくださっていると言うことは、本当に感謝してもしきれないことだった。
 城石先生には、天性の人懐こさが備わっているとは思うけれど、それと同時に人生の中でたくさんの気づきや努力もされているはず。それを惜しげもなく私たちに分けてくださった。
「いくら正しいことでも、相手のことを思って伝えなければ、それは正しくない」
 これも、いつかポロっとおっしゃったことだけれど、この言葉は身に染みた。
 私は、母からいつも訳のわからない「正しさ」を押しつけられて、私の内面のことなどまったく無視されてきたし、母の「正しさ」は、私から見たら、全然正しくなかったからだ。
「そうそう、そうだよね」
 心の中で、激しくうなずく私だった。                    そんな関係をもう何年続けているだろうか。息子たちはもう成人しているのだから、10年以上は経っていると思う。
 ある時何かの流れから、私のことを、
「妹みたいなものですから」 
 と言ってくれたことがあった。そんなふうに、私のことを。この時も、私は、嬉しすぎて固まってしまった。
 私はすでに相当に頼りにしていたけれど、この言葉は改めて、
「頼っても良いよ」
 と言われているように聞こえた。ああ、なんて恵まれている。しつこいほどに勝手になついていったのに、こんなふうに受けとめてくださる人が、この世に存在していたとは。             

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