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【イベントメモ】『アートとフェミニズムは誰のもの?』(光文社)刊行記念 村上由鶴×武田砂鉄トークイベント「批判的に考える勇気」

●2023年9月14日(木)19:00〜
●登壇者:村上由鶴、武田砂鉄
●場所:代官山蔦屋書店
●刊行図書:「アートとフェミニズムは誰のもの?」(光文社新書)
●配信参加

 上野方面のカフェや本屋を練り歩くついでに美術館に寄る。乃木坂のラーメン屋に行くついでに美術館に行く。そのくらいのレベルでしかアートに触れていないけど、興味のあるイベントだったので拝聴した。

*発言は走り書きをそのまま書き写したもの。若干の齟齬があるかもしれない。

言い返したくても、言語化するにはロジックが足りなくて難しい

村上さん:
学生の頃、女性を被写体にした作品を多く製作していると、指導教員から「フェミニズムっぽくなると大変だよ?」と言われたこともあったが、自分が作品に込めて訴えたいものがあるのに、言語化するロジックがなくて難しかった

 わかる〜〜〜〜めっちゃわかる〜〜〜〜! PCの前で首がもげるくらい頷いた。

 相手は良かれとアドバイスしているつもりなのがまた事を難しくしていて、対話しないで自分が「こう!」と決めてかかってしまっているから、「こう!」を言い返す側がどうにかしなくちゃいけない。
 でも言い返すのも体力がいるし、他人の固定概念をどうにかするのはもっと体力もいるし勇気もいる。言葉も必要だけど、精神力も必要だ。

 対話して相手のことを知る、相手にわかってもらう。その姿勢がどれだけ欠けていて、実行するのがどれだけ難しいのか、普通に生活しているだけでもよくわかっているからこそ、対話のための膨大な体力と精神力の量を知っていて、それを目の前にするとなんだか億劫になってくる。

 英語でぺらぺらっと話されて、意味はなんとなくわかるけど、こっちは英語がしゃべれないので言い返すための的確な単語が出てこなくて、最終的に「Yes」とか「OK」とか言っちゃう感覚と似ているのかも??
 こっちがしゃべる「英語」は相手に伝わらないだろうからって諦めてしまう場面は多々あって、どうせこの場かぎりの相手だからなって思ってしまうと、余計な体力も精神力も使いたくないし、まして勇気なんてものを持つこともできない。
 学生の頃も、社会に出てからも、それはあんまり変わっていない。

娯楽を求めた先で

武田さん:
歌手の斎藤和久が原発事故を受けて、自分の歌である「ぜったい好きだった」を「ぜったいウソだった」に替え歌にして原発反対を歌ったところ、いきものがかりの水野良樹がこれに「音楽に政治的な主張を入れるのは懐疑的」「大嫌い」とまで言った件で、水野良樹の見解へのグッドが年々増えている傾向にある。

 名前は忘れたけど、グッドの増加傾向について研究している人がいるんだとか。
 こちらもわかる〜……と思ってしまった。「グッド」をしている人たちに対して。

 毎朝、ニュースを聞いても気持ちのいいことはなくて、現実でもやるせない思いばかりしている。
 非業の死を遂げた知らない人たちのことも、未だ収束を見せない感染病のことも、聞きたくなくても勝手に耳に入ってくる。
 だから一旦、そういうものを自分の生活からシャットダウンしたくて求めた娯楽の先で、ナイーブなものに突き当たってしまったときの不快感はわからなくもない。

 「グッド」の数はもしかしたら、ぜんぜん良くならない景気とか、上がり続ける物価とか、いつまでも続く戦争とか、環境汚染とか少子化とか、自分を幸せなままにさせてくれないどんよりしたなにかが回復しない限り、反比例的に多くなっていくのでは。

 でもだからって、自分が不快に思うことから目を背け続けてはいけないし、まして背け続けることができないことも、「いいね」とかグッドとかしちゃってる人たちもきっとわかってる。
 不快だと思うことにこそ問題がぎっちぎちに詰まっていて、それを一個一個どうにかしてもらわないといけないことも、どうにかしなくちゃいけないこともよくわかってる。
 歌い手が歌に自分の意見を込めるのは、それが最も人に届く最適で最強の方法だからで、「楽しい気分になりたかったのに」などという自己都合で表現方法を潰そうとするのはナンセンス。もちろん紅白歌合戦でいきなりAKBが反戦の歌を歌い始めたらちょっとビビるけど、それでも聴きたくなかったらチャンネルを変えればいい。『ずっとウソだった』はYoutubeやインターネット番組の動画だったし、アクセスした人は好き好んで見に行ったわけで、思ったのと違ったのならブラウザなりアプリなりを閉じればよかった。

 武田さんはイベントの中でこんなことも言っていた。

(「グッド」が年々増えるという)潮流だと、なにかにテーマを持たせることができなくなっていく怖さがある。

 まさに。本当に。
 武田さんが登壇者になったトークイベントはいくつか聞いていて、『父ではありませんが』(集英社)も読んだけれど、その度に、こうして的確に問題意識を言葉にできるのはすごく、すごく素敵なことだと思う。
 これが一番意見を伝えられる方法なんだと信じて叫ぶ人たちのやり方を、「なんか嫌だったから」という気持ちで排除しないように、そういう気持ちをわかってしまう自分がいるからこそ気をつけていたい。

 ちなみに心の底から愛してやまないMOTHER MONSTER・LADY GAGAは、歌で反人種差別も叫ぶし反ジェンダー差別も叫ぶ。素敵だ。


美術館の音声ガイドも良し悪し。

村上さん:
アートを見る人に納得感を与えたくて、批評をしているのかも。

 村上さんは音声ガイドを全面的に否定したんじゃなく、「このアートはこういうアートだ」と決めつけることがあるならいかがなものか、という文脈だった。と思う。
 ちょっと笑ったのは「批判的に見よ! って入館チケットに書いちゃったらどうか」という武田さんの発言。それいいなあ。考えながらアートを見るのは体力を使うけどとても楽しい。

 そういえば、以前国立新美術館の『ルーヴル美術館展 愛を描く』に行った折、あまりにもピンクピンクした入り口にちょっとドン引きした。
 奥へ進めばラブラブした雰囲気も落ち着いていったけれど、展示物は女の人の裸体がほとんどで、「なんだかなあ」と思った記憶がある。って言ってもいつもの癖で図録を買っちゃったけど。
 フェミニズムを学び始めたばかりで、中途半端な知識から男性社会を批判的に見るようになった頃でもあった。それに、たしか『愛を描く』の直前くらいに、アートの歴史を解説している人の話を聞きかじったこともあった。どの時代の絵画のことだったか覚えてないくらいおぼろげなものだけど、内容としてはこんな。

「女性が男性の同伴なしに外出することはほとんどなかった時代のものは特に、男性を観客とする絵画なのであって、描かれた女性たちはほとんど男性のために描かれたものだった」。

誰の発言かは不明。覚えていない。

 『愛を描く』の展示物にこれがどれだけあてはまるのかはちゃんと調べてないのでわからないけれど、昔の絵画の女性たちがほとんどすっぽんぽんなのはそういう事情なのかな……ということばかり考えて、正直に言うと、『愛を描く』の展示物のほとんどが、ちょっと自分には合わないなと思った。裸の女性たちが、男性の性の消費物に思えてしまって。
 これも一種の批判なのか?
 いや違うか?

女性を集めたということだけで

村上さん:
女性だけの展覧会があったとしても、女性を集めたということだけで称賛されたりする。
でも展覧会の本当のテーマは政治についての問題意識だったり、女性が集まったということではないことだってある。
(真のテーマから目をそらすのは、)人の心に優しい波風しかあてたくないってことでもあるのかもしれない。

「人の心に優しい波風しかあてたくない」。
 わあ。
 なんて、
 なんて素敵な、心配りのされた嫌味なんだろう。
 純粋にとても、とても感動してしまった。「人の心に優しい波風しかあてたくない」わあー、鳥肌が立つ。

 女性差別という問題はちくちくと肌を刺すけれど、女性を多く起用したという功績で、肌の痛みをふんわり中和している。その奥にある政治とか、環境問題とか、簡単に解決はできない問題に目を向けさせないようにすることもできる。
 痛みは一瞬肌を赤くするくらいですぐ治まって、痣をつけたいのにそれができない。なんなら「女性をいっぱい集めたんだ、わあすごいねー」なんてことで終わってしまうかも。

 でもたしかに、報道された表面的なテーマだけで納得した気になることって本当に多い。
「こういう価値のあるものなんだ」と言われてしまうと、興味のない分野だともちろん、興味のある分野でも手放しで受け入れて、なんなら「そんなファンやってる私すげー」なんて、先見の明を持っていたかのように錯覚して悦に浸る可能性だって、なきにしもあらず。

 考えたり調べたりするのって面倒くさい。わかる。時間がかかるし、言われたままを受け入れるほうが早い。わかる。スマホでちょっと調べるだけじゃんって思っても、情報が多すぎるせいでそこから取捨選択するのがもう、本当に手間。なんなら拾い集めた情報も、語る目線が偏っていて、こっちで一回片付けてやらなくちゃいけないワンクッションまである。わかる。わかるし、私もそういうの面倒くさいって思ってる。

 面倒くさいけど、でも、そのままを受け入れてしまうとどうしても、力のある人に流されてしまう。他人を丸め込みたい人たちに良いように使われてしまう。自分の人生のオールは自分で漕げみたいな歌詞があったけど、オールで漕ぐどころか溺れていることもわからなくなっていく。そんなことになったらもう、お粗末でしかない。

 もっと物を丁寧に見ていく癖をつけたい。「本当にそう?」「この人が言ってることは正しい?」と思うようにしたい。
 調べてみたけど言われるがままの姿と同じものしか見つからなくて、でも、そういう結果を「時間の無駄だった」と思わずに、「あーよかった、ちゃんとわかって」と思えるくらい余裕のある人間でいたい。
 些細な物事にもプロがいて、そのレベルにまで達することは難しくても、自分で納得ができるくらいまでは頑張ってみたい。

「アートを見る人に納得感を与えたくて、批評をしているのかも。」村上さんの言葉、トークイベントを一周してようやく、すとんと体に着地した気がした。

 トークイベントの後、『アートとフェミニズムは誰のもの?』を購入。じっくり、丁寧に読もうと思う。


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