見出し画像

笑顔で90歳を迎える秘訣は「おかげさま」の精神?

120歳くらいまでなら、まあ余裕で元気だろうな。

これを読んでいる20代、30代の方でそう思っている方はいらっしゃるでしょうか?

先日、東京でIT系の会社を経営するお孫さんのご紹介で、富山県南砺市に住む90歳のおばあちゃんを取材してきました。

彼女が僕くらいの年齢だった頃は、日本の平均寿命は女性で60歳をやっと超えたところ。まず間違いなく90歳まで生きるなんて思ってもいなかったことでしょう。

また、その頃(1950年)の日本人の年収水準はなんと12万円ほどですから、今の日本とはまったく別の国のような時代に青春を過ごしていたわけです。

そんな時代から2024年までを生きて来られた、今回の取材対象の彼女のお名前は、小倉信子さん

取材は、南砺市のとあるカフェで行いました。

小1時間ほどだったのですが、ずっとニコニコしていたことと、「おかげさまで」という彼女の口癖が印象的でした。

「おかげさまでたくさん生きてこられました」
「おかげさまでたくさん人とお話しできました」
「おかげさまでたくさん歩かせてもらいました」

などなど、取材の中で何度も口にしておられていて、日常への感謝が長生きの一つの秘訣なのかなと勝手に思っています。


<いく季節もの時の中で>

昭和8(1933)年、富山県南砺市福光の裕福な家庭に小倉信子さんは生まれました。当時としては少数派の女学校(今でいう中学くらいの年齢で行く)まで進学しています。

南砺市の地域

彼女が生まれた昭和8(1933)年とは、どんな時代か。

ためしにWikipediaで1933年の出来事を調べてみると、ドイツでヒトラーが首相になり、アメリカでルーズベルトが大統領に就任し、日本が国際連盟を脱退しています。悪夢の時代…。

世界的に若者の人口割合が高く、急激に人口が増えていて、世界全体が今のアフリカのように爆発力ある時期だったと言えるかもしれません。富山県もものすごい勢いで人口が増えていました。

参考資料:https://www.pref.toyama.jp/documents/8855/00872424.pdf

そこから実に90年、戦争の勃発と敗戦、高度経済成長と公害問題、二度の東京オリンピック、バブルが生まれて弾け、数々の経済危機、数々の自然災害などいろいろ大きな出来事がありました。

この90年で、日本では実に70回も総理が変わっています。

そんな激動の時を生き抜いてきただけでも驚くべきことですが、信子さんは数年前まで1人で小さな八百屋を70年近くも切り盛りしてきました。

10年ほど前の写真。赤ちゃんを抱いているのが小倉信子さん

<しゃべくり八百屋>

信子さん20歳のとき、生まれ育った福光から井波へ嫁ぎ、小さな八百屋を義理の母から引き継ぐことになりました。

最初に店を紹介された時は、「こんな小さいので八百屋け?」と思ったらしく(さすが両家のお嬢さん)、彼女が徐々に販売スペースを大きくしたと言います。

八百屋としての1日は、早朝に起き、お店のある井波を出て、福野の大きな市場で朝6時に始まる競りに出向いて野菜を仕入れるところから始まります。

お店をオープンしたら、まばらにやってくるお客さんたちとひたすら(時には何時間も)話に花を咲かせて、夜9時に閉店。

これが八百屋をしていたときのルーティーンだったそうです。

「黙っていられないたちやからね」と言う彼女にとって、八百屋の仕事はお客さんとの会話が楽しみだったようです。

というか、「しゃべるのが仕事やから」とさえ述べていました。

旦那さんが当時としては超エリートの大卒者で、教員(後々教頭先生にまでなっていた)だったこともあり、それもあってお店が赤字でも維持できた面もあったからでしょう。

信子さんにとって、八百屋の仕事は本人の好きなことを思い切り反映して、やりたいようにやることができるものだったようです。

ちなみに、小倉家がどれくらい裕福だったかを示すエピソードとして、当時としてはかなり早い時期にテレビが家にあったらしく(今でいうテスラ的な感じ?)、近所の人がわんさか集まって茶の間を占拠された記憶があるそうです。

30年ほど前の写真

<幸せと長生きの秘訣>

信子さんにとって、八百屋の仕事は偶然やることになった仕事です。

ただ、本人の好きなことを思い切り反映して、やりたいようにやることができるものだったのでしょう。

それもあってか、自分の子や孫に対してもあまりガミガミとこうしなさいああしなさいと叱ることはなかったようです。

今回取材を依頼してくださった孫のアキラさんの話を伺うに、小倉家は互いのやることにあまり干渉せず、伸び伸び生きるのを尊ぶ一族という印象を受けました。

家族それぞれが、やりたいことを、やりたいように、やりたいだけやっている。その上で、互いに依存せず、余力をわけて支え合っているように見えました。

良好な人間関係、他者への貢献、感謝、自分のこだわりを思い切り表現できることは健康や幸福度を高めるということの好事例だなと思いました(以前詳しく書きました↓)。

<折り返しを過ぎ、下り坂の時代に>

最後に。信子さんが青春を過ごした世界は、今よりずっと経済的に貧しく、暴力の渦巻くきな臭い時代でした。

カラーテレビ(1960年)も、新幹線(1964年)も、ガスコンロ(1959年)も、電子レンジ(1961年)もありません。

しかし、急激に人口が増え、年々明らかに経済的に豊かになり、生活が劇的に快適になって行く上り坂の時代でもありました。

反対に、今20代の僕らは、生まれてこの方年々急激に人口が減り、経済的に日本が落ちぶれていく下り坂にいます。

それを反映してか、若者の鬱や不登校の問題が増えていると言います。

では、若い僕らが希望をもって生きることは難しいのか?

少なくとも僕はそうではないと信子さんを取材していて確信しました。

彼女の存在が教えてくれるのは、世界がどれほど変わろうと人は生活に楽しみを見出せるということです。

日々素朴な感情を抱けること、歩き、眠り、食べるものがある日常を送れることに喜びを感じ、「おかげさまで」の精神で生きること、それが幸せの秘訣なのではないでしょうか。


この記事が参加している募集

ふるさとを語ろう

サポートいただいたお金は、僕自身を作家に育てるため(書籍の購入・新しいことを体験する事など)に使わせていただきます。より良い作品を生み出すことでお返しして参ります。