見出し画像

正しくあろうとし過ぎる過ち

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
新約聖書 ルカによる福音書 18章9-14節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

「聖書科」という教科の授業を受けたことがあるよという人は、あまり多くないのかもしれません。
初対面の人に自己紹介する時、「私立中高の教員です」まではいいのですが、「教科は?」と尋ねられると「えーと、聖書科、と言いまして、学校がキリスト教主義なものですから……」と、説明が必要になることがほとんどです。
聖書科は英語や数学のように週当たりの授業時間数が多くないので、「その学校の聖書科の先生の数」は当然少なくなります。大抵1人か2人です。
同じ教科の先生が複数いれば、授業案の相談や指導法の伝授など、その学校内でいろんな知識や経験を共有できるかもしれません。でもその学校内でただ1人その教科を担っているという立場の先生などは、学校の外に研修機会を求めるしかありません。
そういう事情もあってか、聖書科は他教科に比べて他校の先生たちとの交流が多いような気がしています。ありがたいことです。

もう10年くらい前になりますが、ある他校の大先輩の先生が、「説教や授業を『命懸けでやっている』なんて言う人を、自分は信じない。説教も授業も、自分たちは命なんて懸けられないんだ」と、強い語調で仰いました。
日頃とても穏やかでにこやかな方なので、その激しさに私はちょっと戸惑って、「一体どういう意味ですか」と問い直すこともできませんでした。
でもその一言はずっと心にかかり続けました。

命懸けで授業ができない、説教ができないとは、どういう姿勢のことを言うのか?
命懸けで授業や説教に取り組むのは、良くないことなのか?
命を懸けるような思いで仕事に取り組むことは、ダメなことなのか?

その先生こそ、本当に精魂傾けて聖書科の授業に取り組み、生徒に向き合っておられるような先生でしたので、「ご自身を否定しておられるということ?」などと悩みつつ、若かりし日の私は頭の片隅でずっとその言葉の意味を考え続けていました。

年月を経て、今の私は少しだけ、その先生が仰った心持ちが分かるような気がしてきました。
「自分は命懸けで授業をやっている! 説教をしている!」と思う時、それは「自負」です。
文字通り「懸命」にやることは、決して間違ったことではありません。
ただ「懸命にやっている」ことを声高に言いたくなる時、そこにあるのは「自己顕示欲」です。「私のやり方は正しい。私の取り組み方は素晴らしい」。そういうアピールです。

手を抜け、というのではないのです。「懸命」に「必死」にやることは、与えられた働きに対する誠実な姿勢だと思っています。
でも「だから私は正しい」と思うところには、「つまりあの人は間違っている」とか「この私と相容れない人は誤りである」というような、「他者否定」がすべり込んできます。また「私の取り組みに傲慢さは無いか?」といった、「過ちに対する自己点検」の眼差しが薄れるのです。

かの先生のお言葉はここに根差しているのではないかと今の私は感じています。
「どんなに懸命にやっても、自分は『正しい先生』『善い先生』になどなれはしない。どんなに必死にやっても、良かれと思ってしたことで誰かを傷付けてしまうことさえある、そんな弱い人間だ」。
「謙遜」と呼ぶには厳し過ぎるほどの真摯さが、あの言葉となって表れたのではないかと想像しています。
今の私がまさにそういう思いで教壇に、講壇に立っているからです。

冒頭に引用したのは、イエスのたとえ話です。
律法と呼ばれる宗教的な掟をきちんと守り、神殿への捧げものをたくさんして、悪事を働くことの無い「ファリサイ派の人」は、「神さま、私はこんなに頑張っています! こんなに正しく生きています!」と誇らしげに祈ります。彼の営みは本当に賞賛すべきものだと思いますが、彼はそんな自分を誇りに思うだけではなくこう考えるのです。「あの徴税人のようでない自分で、良かった」。
徴税人とは、当時同胞たちから敬遠された職業で、仕事柄宗教的にも褒められない仕事を請け負った人です。その徴税人は、神殿で前へ進み出ることすらせず、遠く離れた所から祈ります。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。

正しさを「懸命」に求めれば求めるほど、正しくないものに不寛容になってしまう私たち。逆説的ではありますが、このことを心に深く留めていないと、私たちはいとも簡単に「私の目に正しくないもの」を傷付け、切り捨ててしまいます。

「誰よりも正しくあろうとしてしまう過ち」というものもあるのだと、この徴税人のように胸を打ちながら自分に言い聞かせていく必要があります。「先生」と呼ばれる私のような立場の人間は、特に。

私は「先生」と呼ばれる器なんかじゃない。ましてや「良い先生」になんかなれない。「良い先生であれたら」と切実に願うけれど、そうなろうとすればするほど私は「良くない人」を裁いてしまう。
「ただの一人の人間」としての小ささ、弱さ、危うさを自覚しながら、「少しでも良くなりたい。でも本当に良いものはただ主にある」という謙虚さを失わず、誠実に歩みを重ねていけたらと願います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?